時は1980年。この年「夜のヒットスタジオ」にピンク・レディーが初めて出演したのは、ようやく5月26日のことだった。前回書いたように、アメリカ3大ネットワークの1つ、NBCで彼女たちをメインに抜擢したレギュラー番組≪Pink Lady and Jeff≫が決まり、年明け早々アメリカに渡って、ロサンゼルスで長期間の収録に臨んでいたからである。

この日歌ったのは、5日前に発売された18枚目のシングル「世界英雄史」。紫のコスチューム以上に、視聴者の目を引いたのは、ミーちゃんのワイルドなカーリーヘアだろう。曲のことは全く記憶になかった僕自身も、ミーちゃんのこの大胆なイメージチェンジは、何となく覚えている。


「世界英雄史」について書く前に、ピンク・レディーが不在だった数か月の間に、日本の歌謡界で動き始めた「世代交代」について押さえておきたい。また、彼女たちのアメリカ進出のハイライトの一つ、NBC出演の顛末についても触れなければならないだろう。「ピンク・レディープロジェクト」は事実上、ここで崩壊したと言っても過言ではないからだ。

まずは、少し時計を戻そう。1980年の春、日本の女性アイドル歌手の世代交代を象徴する2つの出来事があった。

1つは、山口百恵さんと三浦友和さんとの婚約会見(3月7日)である。百恵さんは結婚を機に、芸能界から引退することを表明した。もう1つは、松田聖子さんのデビュー(4月1日)である。もちろんこの時点では1人の新人歌手に過ぎなかった訳で、「世代交代の象徴」と意味づけられるのは、後になってからの話である。

2人のスーパーアイドル、百恵さんと聖子さんだが、実は歳は2つしか違わない。しかし、百恵さんやピンク・レディーなど主に70年代に活躍した女性アイドルと、聖子さんをはじめ「花の82年組」と呼ばれた中森明菜さん、小泉今日子さんら80年代アイドルとの間には、目には見えないがメンタリティーに決定的な違いがあると、僕(「82年組」とほぼ同世代)などは感じている。もちろん1人1人、個性や背景が異なるので、単純に一括りには出来ないが、それはこういうことではないか。

70年代は、アイドルというジャンルそのものが誕生したばかりで、いわば「先行モデル」がほとんどいなかった。少女たちはまずは「歌手」を目指して芸能界に入り、周囲がいろいろと手をかけて「アイドル」に育てていった。(何をもってアイドルというのか、定義はいろいろあるだろう。活動の面では、歌だけでなく、主にそのルックス、外見的な魅力を生かして、グラビアなどビジュアル的な仕事にも比重が置かれたのが特徴と言える。)

それに対して、80年代アイドルは、デビューする前から「花の中3トリオ」やキャンディーズ、ピンク・レディーなどを見て育った。つまり70年代アイドルをお手本に、見せ方や振る舞い方を意識的、無意識的に吸収し、自然と「アイドル的なもの」を身につけた上で、最初から「アイドル歌手」を目指している。

その両者の違いは、芸能界入りをかけた最も大事なオーディションで、それぞれがどんな歌を「勝負曲」として歌ったのかを見れば、一目瞭然である。

まず、70年代アイドルの例。いずれもデビューのきっかけとなったオーディション番組「スター誕生!」で歌った曲である。

森昌子:涙の連絡船(都はるみ)
桜田淳子:見知らぬ世界(牧葉ユミ)
山口百恵:回転木馬(牧葉ユミ)
岩崎宏美:あなた(小坂明子)
ピンク・レディー:部屋を出てください(ピーマン)

詳しい説明は省くが、この中にアイドル歌手の持ち歌はない。牧葉ユミさんは「若い女性歌手」ではあったが、アイドルではなかった。演歌の都はるみさん、シンガーソングライターの小坂明子さんは言うまでもない。

ピーマンは、ニューミュージックのアーティストを多く輩出したヤマハ出身の女性コーラスグループである。メンバーには、後にサーカスで活躍する叶正子さんもいたが、このグループは当時一般にはあまり知られていなかった。

静岡の高校生だったミーちゃんケイちゃんは、ヤマハでレッスンを受け、地元で「クッキー」というグループ名で活動していたことは前にも触れた。2人は「スタ誕」で合格するためには、誰もが知っている有名な曲を歌ったのではオリジナルと比較されて不利だと考え、ほとんど知名度がないヤマハ系の曲をあえて選んだのである。ちなみに、衣装もわざと垢抜けないサロペットを着て、素人っぽさを強調したのは有名なエピソードだ。なんとか歌手になりたいと、高校生なりに必死に知恵を絞り、戦略を練っていた2人。微笑ましくも、いじらしくもある。

さて、次に80年代アイドルがオーディションで歌った「勝負曲」の例である。

松田聖子:気まぐれヴィーナス(桜田淳子)①
河合奈保子:春ラ!ラ!ラ!(石野真子)②
柏原芳恵:お元気ですか(清水由貴子)③
小泉今日子:彼が初恋(石野真子)④
中森明菜:夢先案内人(山口百恵)⑤

若干の注釈がいる。①は「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区予選にテープで応募して合格した時の曲。この時はデビューにはつながらず、後に所属事務所サンミュージックの面接を受けて採用される。②は西城秀樹さんが所属していた芸映プロの「HIDEKIの弟妹募集」オーディションで歌った。③④⑤は「スター誕生!」。いずれにせよ、ここに挙げた全てがアイドルの持ち歌である。

実際、彼女たち80年代アイドルは、それまでとどう違っていたのか?「スター誕生!」にスタート時から審査員として関わっていた阿久悠氏は、71年から12年続いた番組の終わりに近い頃(81年)に合格したキョンキョンとアキナちゃんについて、後にこう書いている。

彼女たちは 、少女であっても 、どこか独立していて 、極端なことをいうと 、他人の知恵を拒んでいるようにさえ見えたのである 。(中略)小泉今日子も中森明菜も 、大人のプロに対して 、どこかヒラヒラと拒絶の手を振っていたような気がする 。彼女たちの個性というより 、時代であったと思う 。(「夢を食った男たち」より)

ピンク・レディーをはじめ、作詞家として何組もの女性アイドルに関わり、育て上げてきた阿久氏が感じた、大人たちへの拒絶の手。80年代の女性アイドルは、自分らしさをどう見せるかということに自覚的で、セルフプロデュースの志向が強かったのかもしれない。さらに突き詰めると、アイドルの「アーティスト化」にもつながっていくが、それはもう少し先のことだ。

とりあえず、このあたりで80年5月最後の「夜ヒット」に戻ろう。前年11月以来、半年ぶりに番組に帰ってきたピンク・レディーに、司会者たち(芳村真理さん、井上順氏)は次のように言葉をかけた。

井上:というわけで久々のピンク・レディーですけどね。とにかくピンク・レディーね、外国での番組も無事消化してきました。

芳村:ご苦労様でした。拍手してね。
(出演者たち拍手)

井上:お疲れさまね。打ち切りになっちゃったって話なんだけど、僕は現実にそのフィルム見たの。とってもよかったのよ。だからいい番組でも打ち切りになっちゃうってこと、あるけどね。だから一番いいのは日本のみなさんにそのVTRを見せられると一番ね。いいことやってたんだって。

芳村:今度見せてよ。

井上:新聞とかいろいろ見ると、ピンク・レディーがだらしなかったんだって見えるけどさ、でもすごいよかったですよ。

芳村:とっても出来ないわね、ああいう真似はね。だから順ちゃんだったらどうなったか、わたし心配しちゃうのよね。


彼女たちのことを、よくやったと褒めているようでいながら「打ち切り」とか「だらしなかった」とか、穏やかでない言葉も連発される。ミーちゃんケイちゃんは、特に発言もせず、笑顔で穏やかに聞いていた。

アメリカNBCの番組収録を全て終えて、2人が帰国したのは、4月10日だった。成田空港に詰めかけた芸能記者たちの質問は、NBCのことではなく、その頃語られ始めた「ピンク・レディー解散」の噂に集中した。噂の根拠は、所属事務所T&Cとの契約が3月末で期限を迎えたにもかかわらず、契約の更新がなされていない、というものだった。2人は解散は否定したものの、ケイちゃんは次のように答えている。

「契約はしていません 。これから事務所と話合いをします 。これまで 、後楽園球場の七万人コンサートなど 、大きな事ばかりしてきました 。行きつくところまで行ってしまうということは 、アトがないって感じになる 。私の希望だったのは 、今年はマメに 、小さなステップをつんで 、力を蓄えたかった 。アメリカの仕事は 、それとは逆の方向に行き 、不満はあった 」 (スポーツニッポン 1980年4月11日)

1月12日の渡米の際、成田空港で涙を浮かべていたケイちゃん。アメリカに到着してすぐ、その不安が現実になる。契約に関するトラブルが発生したのだ。契約書はどんなものだったのか?直接見られる訳ではないので、当時の所属事務所T&Cの会長、貫泰夫氏の著作「背中から見たピンク・レディー」やルポライター山際淳司氏による雑誌「婦人公論」の記事などを元に、推測するしかない。

もともとNBC出演に関する契約は、NBCと直接結んだ訳ではなく、どうやらアメリカでのプロモーター、ポール・ドリュー氏が間に入って、結んだものらしい。このドリュー氏を介した契約の中身を、一行がロサンゼルスに入ってから確認したところ、2つの問題があった。

1つは、5月下旬まで休みがないこと。月1回は日本に帰国したいというのが、彼女たちの希望だった。もう1つは、契約期間が5年(貫氏による。山際氏は5年半としており、ケイちゃん=増田惠子さんの自叙伝「あこがれ」には7年とある)と長期に渡り、その間はNBCの仕事を優先しなければならない、というもの。後者については、実際にはアメリカではNBC以外のテレビ局に出られない、ということだったようだが、ケイちゃんは日本に帰れない、と思ってしまった。

この契約とは別に、ドリュー氏とT&Cとの間では、金銭をめぐるトラブルが起きていた。アメリカでのレコード原盤の制作費として、T&Cはドリュー氏に8万6千ドルを渡していた。この原盤制作費は、後でレコード会社からT&Cに支払われるはずだった。ところが、ドリュー氏は、そのT&Cが受け取るべき8万6千ドルも、レコード会社からもらっていた。いわば二重取りである。

T&Cはドリュー氏との契約を解除。改めてNBCと直接交渉を行い、2人の月1回の帰国を認めてもらった。しかし、きちんと契約が結ばれるまで、NBCは予定していた収録を中止にせざるを得なかった。これによって5万ドルものキャンセル料が課せられた上、弁護士費用もかさみ、T&Cには大きな痛手となった。さすがの貫会長も、悩みに悩んでホテルの部屋から飛び降りたいと思ったほどだったという。収録が始まる前から既に、トップ自ら「私自身アメリカを断念、NBCは消化試合と観念し逃げ出したい気持ちしかなかった」のである。

すったもんだの末、2人がやっと1本目のリハーサルに入ったのは、2月9日。渡米から1か月近くも経っていた。≪Pink Lady and Jeff≫は、1時間番組。1本の収録を行うのに、リハーサル5日、本番2日というスケジュール。ミーちゃんケイちゃんにとって、何よりもハードだったのは、分厚い英語の台本を覚えることだった。

2人はセリフを暗記するため、夜もそれぞれの部屋にこもりっきりになった。ケイちゃんは、帰国後こう語っている。

「自分でも寝ているのか目覚めているのかわからないんです。枕元に台本やカセットを置いておかなければ不安だからズラっと並べて…。朝、いつ目覚めていたのかもわからないような毎日でした。」(「週刊女性」80年の記事)

アメリカ人のスタッフたちは皆、彼女たちに優しかったという。しかし、スタッフの前で、2人が日本語で会話することは禁じられていた。食事の席で「美味しいね」ということすら、許されなかったという。そんな日々が続いたことで、ミーちゃんケイちゃんのコミュニケーションは減り、次第に意思の疎通を欠くようになった。

ケイちゃんには、恋愛相手の某歌手から、頻繁に国際電話がかかってきた。(コレクトコールでかけてくるので、電話代はケイちゃん持ちだった、という噂もある。2005年の再結成コンサートのDVDでは「若気の至り」と笑い話にしていたケイちゃんだが、当時日本語で心を許して話ができる相手は、彼しかいなかったのだ。)傍からは、恋愛にうつつを抜かして、仕事に身が入っていないと見えたかのも知れない。ケイちゃんと某歌手の交際を快く思わない事務所の幹部は、ミーちゃんに「ソロでやってみないか」と持ちかけるようになった。アメリカ3大ネットワーク、ゴールデンタイムでレギュラーの冠番組獲得という快挙の陰で、ピンク・レディーのプロジェクトは崩壊の一途をたどっていた。

2月17日、2人は日本に一時帰国した。20日にはアメリカにトンボ帰りしたのだが、この時それぞれのお母さんが同行している。歌手デビューが決まって静岡を出る時は、売れるまでは実家の敷居を跨がない(追記:「敷居は跨いでも泊まらない」としている記事もある)と誓ったくらい気丈な2人が、精神的に相当参っていたと思われる。特にケイちゃんは、お母さんがついていないと、ほんとうにヤバかったのではないか。「あこがれ」によれば、事務所がアメリカで仕事をさせるのは、自分と恋人との仲を引き裂くためで、従わなければ殺されるかもしれないと思うほど、心が病んでいたという。

≪Pink Lady and Jeff≫は、3月から放送が始まった。アメリカではDVDも発売されており、一定の人気はあったようだ。動画サイトに一部が投稿されているが、正直なところ番組としてはどうかと思う。

今から40年も前なので、仕方がないといえばそれまでだが、食事の前にドラを鳴らすとか、相撲取りがいきなり出てくるとか、日本文化に対する誤解や偏見を元に作られている。とりわけビキニを着たミーちゃんケイちゃんが、他の水着の女性たちとともに、タキシード姿のジェフ・アルトマン氏とバスタブに入るシーンが物議を醸した。アメリカの歴代ワースト番組の一つという評価もある。

NBCフレッド・シルバーマン社長の鶴の一声で企画が立ち上げられたものの、やはり現場との間には温度差があったようだ。演出陣は、ピンク・レディーに慣れない英語でコントを演じさせることで、彼女たちの魅力を引き出せると本気で考えていたのだろうか?結局のところ、番組は6本を収録し、5本が放送されたところで打ち切られている。

ただ「夜ヒット」で井上順氏が「とってもよかった」と言ったように、ミーちゃんケイちゃんの2人はよく頑張っている。あの頃の日本の歌手で、精神的に追い込まれながらも、アメリカの大舞台で堂々とあれだけのパフォーマンスが出来たのは、おそらくピンク・レディーだけだっただろう。

ということで、今回も随分長くなってしまった。「世界英雄史」については、次回。