プロ野球、埼玉西武ライオンズ。福岡の名門球団、西鉄の流れを汲むクラウンライターを、西武鉄道グループの国土計画が買収。新球団、西武ライオンズとして、今からちょうど40年前の1979年に最初のシーズンを戦った。

この年のチームの成績は、パ・リーグ最下位に終わったが、球団はPRやファン獲得に力を入れた。以前も書いたが、球団歌「地平を駈ける獅子を見た」は、あの阿久悠氏が作詞を手がけたほどだ。(作曲:小林亜星、歌:松崎しげる)PRの結果、観客動員数はリーグでトップに。本拠地とした埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場は、沿線の新たな人気スポットとなった。

その西武球場で、79年のシーズンも終わりに近い10月8日、「夜ヒット」の公開生放送が行われた。トップバッターとして登場したのが、ピンク・レディーだった。

司会者(芳村真理、井上順)も触れているが、彼女たちが西武球場で歌うのは、初めてではない。「ビッグ・ファイト‘79」と銘打った夏のツアーの初日、7月28日にこの球場で野外コンサートを行っている。(ちなみに、当時のスポーツ紙によれば、観客数は2万5千人。中には「1万5千人」、「空席目立つ」と書いている新聞もある。前年夏、2日間で7万人を動員した後楽園球場でのコンサートに比べれば確かに少ないが、それでも立派なものだと思う。)

西武球場での「夜ヒット」、2人が満を持して披露したのが、全米デビューシングルとして、8月にビルボード37位の快挙を成し遂げた「キッス・イン・ザ・ダーク」(Kiss In The Dark)である。


衣装は黒のシルクトリコットで作ったレオタード。タイツで脚を完全に覆うのは、ミニが当たり前だったピンク・レディーの衣装としては、恐らく初めてだろう。(追記:前年暮れ、「UFO」でレコード大賞を受賞した時の衣装は脚を覆っていた)胸元から右脚にかけて色とりどりのスワロフスキーが幾筋もの流線を描くように縫い込まれ、夜空を彩る星々を思わせる。司会の芳村真理さんによれば、この衣装が所沢の球場に到着するのが遅れ、2人はイライラしながら待っていたが、何とか本番に間に合ったそうだ。

ピンク・レディーの衣装を担当していたデザイナーの野口庸子(よう子)さんによれば、当時は今と違って、舞台衣装を作るための材料がなかなか市販されておらず、一から生地や素材を探して自分で手作りしなければならないので、ほんとうに手間がかかったという。

新曲が出るたびに、衣装を何パターンか用意しなければならないが、振り付けと衣装製作は最後の工程となるため、いつも発注がギリギリになり、時間の余裕もない。2人の体型も変わるので、最も忙しい時には、深夜に彼女たちが土居甫さんに振り付けをしてもらうスタジオに出向き、合間に仮眠を取っているミーちゃんケイちゃんを一人ずつ起こして採寸したこともあったという。

それでも、もともとドレスなど高級服のデザインを手がけていた野口さんは、舞台衣装だからといって決して手を抜かなかった。そのプロフェッショナルな仕事が、ビジュアル面でもたらした貢献は計り知れない。


この日のピンク・レディーは、とにかくかっこいい。大会場での公開生放送の1曲目。盛り上げは私たちに任せて、と言わんばかりに、イントロが始まると同時にハイテンションなかけ声。背中合わせで回転しながら、軽快に跳ねるステップ。ケイちゃんは、あのハスキーボイスで「ア〜」とアドリブを入れてきた。いきなりの攻撃に、悩殺されそうになる。

♪I know your type 
  You're playing with me
  I saw you coming from across the room

ファルセットで、軽くささやくような歌い方は、ロサンゼルスでのレコーディングの際に、プロデューサーで、この歌の作詞作曲も手がけたマイケル・ロイド(Michael Lloyd)氏がアドバイスしたもの。それまで彼女たちは、どちらかといえば全力投球で力いっぱい歌っていたのだが、ロイド氏は「2人の声は硬いから、柔らかく、息と一緒に出すとセクシーだから」と自ら歌って指導したという。

さらにロイド氏は「2人の声質を揃えるように」とも。これは2人というよりも、ケイちゃんに対して、その個性的な地声を封印しなさい、と言っているように受け取れる。ケイちゃんも戸惑ったと思うが、このウィスパー唱法を体得したことで、表現の幅がぐっと広がったことは間違いない。現地で細かく指導されたという英語の発音も含めて、短期間で様々なことを習得し、自分のものにする彼女たちの能力はほんとうにすごい。

ロイド氏はもともとシンガーで、70年代には人気グループ、オズモンズ(オズモンド・ブラザーズから改名)や、ショーン・キャシディ、レイフ・ギャレットといった男性アイドルのプロデューサーとして活躍していた。

ピンク・レディーのプロデュースを請け負うにあたり、彼は日本で大成功した2人のイメージを脇に置いて、「セクシー」をキーワードに、アメリカで通用するスタイルを、発声方法にまで立ち返り、ゼロから作りあげようとした。レコーディングはロイド氏の自宅のスタジオで行い、2人以外、日本からのスタッフを中に入れなかったという。それだけ本気だったのである。

考えてみれば、ミーちゃんケイちゃんのコンビには、スタッフとして関わった阿久悠、都倉俊一、土居甫といった一流の人たちを、本気にさせる何かがあった。彼女たち自身の魅力や才能はもちろん、秘めた可能性、ひたむきさ、学習意欲、適応力、吸収力…そうした全てを備えた非凡な存在だったからこそ、周囲もエネルギーを惜しまず注いだのだろう。

さて、ロイド氏による「キッス・イン・ザ・ダーク」は、ディスコ・ミュージックならではのリフレインの手法を取り入れている。シンプルで覚えやすく心地よいフレーズを、何度も繰り返すのである。恐らくディスコで踊ることを前提に生まれたものだろう。(それまでの日本の歌謡曲にはほとんどなかったと思うが、後の時代のJPOPには影響を受けたものが見られる)

レコード音源では<♪Kiss in the dark / And run away / Kiss in the dark>の4小節を何度も繰り返し、フェイドアウトしていくのだが、この日の「夜ヒット」では、この後半のリフレイン部分がクライマックスとなった。

ケイちゃんが<♪Kiss in the dark…>と主旋律をしっかりキープした上に、ミーちゃんが<♪Haaa~>と得意の高音で、アドリブをかぶせてくる。

前半は声質を合わせ、ウィスパーで歌ってきた2人が、ここでそれぞれの個性を発揮し、聴衆を魅了するのだ。レーザー光による演出がステージに花を添える。

 

スタジアムを渡ってくる秋の夜風に髪を靡かせ、熱唱するミーちゃんケイちゃん。ただでさえ難しい英語、しかも他に手本がないオリジナル曲を、息の合ったダンスで盛り上げつつ、見事に歌いあげた。当時、これだけのことができたシンガーが、日本にどれだけいただろうか。この日のパフォーマンスは、歴史に残る名演と言っても過言ではない。(ピンク・レディーのほとんどのパフォーマンスを名演だと思っている一個人の見解である)


その意味で、79年秋のピンク・レディーは、彼女たちのキャリアの中でも、最も充実していたのかもしれない。前回も書いたが、残念なことに、当時そのことに気づいている日本人は少なかった。そして冬に向かって、ケイちゃんの心をかき乱すことになる、新たな計画が進行しようとしていた。