1979年5月14日の「夜ヒット」。ピンク・レディーは珍しく、オープニングメドレーのすぐ後のトップバッターを務めた。

披露したのは、2週間前の5月1日に発売した新曲、「ピンク・タイフーン(In The Navy) 」である。

セーラーカラーが特徴的なマリーンルックのコスチューム。白をベースに、青と赤のスパンコールが縫い込まれている。衣装を手がけていた野口庸子(よう子)さんも気に入っていたそうだ。ブラスのフレーズが印象的な、軽快でノリのよいサウンド。ラジオ体操を思わせる、シンプルで親しみやすい振り付けも相まって、2人のキュートな魅力が際立つ。


12枚目となるこのシングルは、デビューからずっと手がけてきた阿久悠・都倉俊一コンビの作品ではなく、当時世界的なディスコ ・ブームの中で人気を博していたヴィレッジ・ピープルの楽曲をカバーしたことで話題となった。

ちょうどこの年の春、同じヴィレッジ・ピープルの曲をカバーした「YOUNG MAN」(西城秀樹)が大ヒットしたばかり。「人気に陰りが出てきたピンク・レディーが、起死回生のために2匹目のドジョウを狙って、カバー曲に手を出した」当時中学生だった僕自身も含め、そんな風にとらえていた人も多かったと思う。

しかし、彼女たちが外国曲をカバーしたのは、単なる気まぐれやその場の思いつきでは決してなかった。その頃も熱心なファンには良く知られていたと思うが、実はピンク・レディーは、早くから洋楽のカバーに本格的に取り組み、実力を磨くとともに、質の高いパフォーマンスを披露していたのである。

洋楽に力を入れていた直接の理由は、コンサートのレパートリーのためだった。何しろデビューして数か月で人気が沸騰し、急遽単独コンサートを開催することになったが、まだ持ち歌が圧倒的に少なかった。もともとミーちゃんもケイちゃんも、トム・ジョーンズやシュープリームス、スリー・ディグリーズなど、洋楽好きだったこともあるが、やはり「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と言って彼女たちをスカウトした所属事務所T&Cの制作部長、相馬一比古氏の意向が大きかっただろう。

相馬氏は、ピンク・レディーをデビューさせた翌年、77年春の「チャレンジ・コンサート」を手始めとして、夏の「サマー・ファイア ’77 」、冬の「バイバイ・カーニバル」など定期的にコンサートツアーを企画した。ラスベガス公演や後楽園球場での7万人コンサートも含めて、これらのコンサートは、洋楽カバーを中心に構成されていたのだ。

2005年に亡くなった相馬氏に関しては、ネット上にもほとんど情報がなく、不明なことばかりだが、芸映のマネージャーとして、いしだあゆみさんや西城秀樹さんを担当するなど、長年第一線で活躍してきた業界人であり、洋楽にも非常に精通していた。そしてビートルズの敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインやプレスリーを見出したパーカー大佐に憧れ、自らもマネージメントのプロとして、アメリカや世界に打って出たいという思いがあったようだ。

ビクターの担当ディレクターだった飯田久彦氏も、コンサートに一役買っていた。超多忙だったピンク・レディーは、レコーディングの時間が取れず、オリジナルのスタジオアルバムを作るのが困難だった。そこでコンサートに一流のスタジオミュージシャンたちを参加させ、ライブ・アルバムを作って発表する作戦を考えついたのである。

従って、彼女たちのコンサートでは、カバー曲は単に余った時間を埋めるためだったり、アイドルの余芸やお遊びといった軽いものではなかった。どれも新しいアルバムを構成する大事な楽曲であり、手を抜く訳にはいかない。バックも選りすぐりの一流ミュージシャンである。新しいコンサートツアーが近づくと、彼女たちは必死で曲を覚え、練習した。77年暮れまで2人は渋谷・富ヶ谷の相馬氏の実家に下宿していたが、仕事を終えて深夜に帰宅してから、下宿の居間のコタツで、コンサートで歌う曲をラジカセで繰り返して聴いて練習していたという。

当時のライブ・アルバムを聴いたり、映像を見ると、彼女たちが実に多彩な曲をカバーしているのに驚かされる。50年代、60年代のオールディーズから、ABBAやスティービー・ワンダー、オリビア・ニュートン・ジョンなど、その頃流行していた同時代の人気アーティストのヒット曲まで、選曲はほんとうに幅広い。

中には、それほどヒットしていなくても「これは」と通を唸らせるような曲にも、意欲的に挑戦している。例えば「サマー・ファイア ’77」で披露した「ロックン・ローラー・コースター」は、オクターブの声域を持ち、評論家など一部のコアなファンに注目されていたジャマイカ系イギリス人の女性シンガーソングライター、リンダ・ルイスの作品。ケイちゃんの歌い出しが、素晴らしい。

ついでに言うと、ライブではミーちゃんケイちゃんがそれぞれソロで歌うコーナーがあるのだが、ケイちゃんのソロは圧巻である!「ホテル・カリフォルニア」、「朝日のあたる家」、「チェインド・トゥ・ユア・ラブ」などは、是非聴いていただきたい。ちょっとケイちゃん、どうしちゃったの?ってくらい、衝撃を受ける。19〜20歳頃の彼女独特の繊細な感性が、楽曲の世界と化学反応を起こし、さらにコンサートの高揚感も加わって、まるで何かが降臨したか、感情の針が振り切れたようなエモーショナルなパフォーマンスとなり、そのオーラで聴衆を完全に支配している。あの独特の低くてハスキーな声、そして男性顔負けのパワフルなシャウト!日本の女性シンガーにはなかなかいないタイプの得難い個性があり、ソロ歌手としても大きなポテンシャルがあったことがわかる。

ミーちゃんもソロパートでは負けじと頑張っているし、当然2人で歌うカバー曲もかなり気合いを入れて仕上げている。中には荒削りなところもあるが、それも含めて、ピンク・レディーらしく、生き生きと伸びやかに歌っている。

もちろんコンサートでは、自分たちの持ち歌も披露しており、コンサートに来るファンの多くはそちらが目当てだっただろう。しかし今、ライブ・アルバムを聴くと、外国のカバー曲を楽しそうに歌っているのが本来のピンク・レディーで、テレビの歌番組で数々のヒット曲を歌っていたのは、実はかりそめの姿だったのではないかと思ってしまう。それくらい、カバー曲のパフォーマンスが充実している。

さて、彼女たちの洋楽カバーには、原曲の通り英語で歌うものと、日本語で歌っているものがある。その日本語の訳詞を一手に引き受けていたのが、作詞家の岡田冨美子さんである。ピンク・レディーの作詞と言えば、阿久悠氏のイメージが強すぎるので、岡田さんの存在が注目されることはほとんどないが、実は彼女たちの成功を支えた大功労者の1人だと思う。

岡田さんの訳詞は、原曲の英語の詞をそのまま忠実に日本語に翻訳したものではない。タイトルや曲のニュアンスを残しつつも、ピンク・レディーが歌うことを前提に、女の子目線で全く新しい詞を書いているのだ。

その詞がまたすごい!恋する女の子の赤裸々な気持ちを大胆に表現し、けっこうエッチで挑発的な内容も、ズバッとストレートに言葉にして投げ込んでくる。身もふたもないくらいの豪速球だ。男には絶対に書けない詞である。

♪あいつ背中が弱い  うしろから行けそうよ
  上手に攻めて落として 抱かれたいの
  Love potion no.9
  (ラブ・ポーション No.9 )

♪どうにかされたい もう待てない 待てない
  Oh, yes, baby, hey, hey
  All right 
  抱きしめてよ 早く 涙が出てきそうよ
  Oh, yes, baby, hey, hey
  All right 
  (ホワット・アイ・セイ)

♪私がキッスすれば ダイナマイト
  からだじゅう はじけちゃうわ 良すぎて
  くちびるが甘くて柔らかい
  Three, Two, One, Zero, Here goes!
   (中略)
  あなた良さそう 本気じゃないわね
  困るのよ 本気の人 だって
  私 遊びたい 季節なの
  Three, Two, One, Zero, Here goes!
(ダイナマイト)

不思議なことに、これらの際どい歌詞も、ミーちゃんケイちゃんの2人があっけらかんと歌うと、全くいやらしさを感じない。一歩間違えれば、安っぽいお色気を振りまくB級セクシータレントのようになってしまう恐れもあったと思うが、そうならないギリギリの線まで攻めて行けたのは、やはり岡田さんが女性の目線で、同性から見てもキュートでカッコいいピンク・レディーの魅力をきちんとわかっていたからだろう。

衣装担当の野口庸子さんも同じである。長いものを着て2人で並ぶと野暮ったくなるので、生地をできるだけ減らして垢抜けて見えるようデザインしていたという野口さん。あの時代、あれだけ肌を露出した衣装は確かに過激だったが、決してふしだらに見えることなく、健康的で清潔感を保っていたのは、野口さんが女性の目線で作っていたからだろう。その意味で、ピンク・レディープロジェクトにおいて、岡田さんや野口さんのような女性が果たした役割は大きい。(もちろん本人たちの真面目で謙虚な人柄もある。チャラチャラした、いい加減なオネエちゃんたちだったら、あれだけ女性や子どもに支持されることはなかっただろう)

話を「ピンク・タイフーン」に戻すと、この曲の訳詞を手がけたのが、岡田冨美子さんである。もともと原曲の♪In The Navy〜を、♪PINK LADY〜にして歌ったら面白い、というところから企画がスタートしたそうだが、訳詞を依頼された岡田さんも「待ってました!」というところではなかったか。岡田さんらしいストレートな歌詞は、まさに本領発揮、面目躍如という感じである。特に歌い出しの歌詞が秀逸だ。

♪まだ間に合う あわてないで 落ち着いて行け
  宇宙船が飛ぶ時代さ 大きくかまえろ

「ピンク・タイフーン」は、全ての恋する人たちへの応援歌であると同時に、ピンク・レディー自身のテーマソングであるとも解釈できる。2003〜05年と11年の再結成ツアーで、そのことが実証されたように思う。再結成のステージでは観客と一体になり、ノリノリで盛り上げてくれているケイちゃんだが、実はリアルタイムで歌っていた当時は、この曲があまり好きではなかったそうだ。

その頃のケイちゃんの心の声である。( 「Singles Premium 」のライナー・ノートより)

♪PINK LADY もっと元気よく
(これ以上、頑張れないよ)

PINK LADY もっとメチャクチャに
(もうメチャクチャになってるし)

79年の春、ほぼ1か月アメリカを拠点に活動していたピンク・レディーは、4月20日に帰国。1年以上にわたって続けてきたホテル生活を終え、事務所が購入したマンションに入居した。この日の「夜ヒット」でも、司会者がそのことに触れているが、当時雑誌の取材も受けていて、ミーちゃんケイちゃん、それぞれの新居でくつろぐ場面が、グラビアで紹介されていたりする。かねて彼女たちを酷使していると悪評だった事務所が、イメージアップのために取材させたのだろうか?いずれにせよ、プライバシーや個人情報の保護は、それほど省みられない時代だった。

上京から3年。レコード大賞も獲り、アメリカにも進出し、都心でマンション暮らしも始めた。誰もが羨む成功とは裏腹に、ケイちゃんは辛さを抱えたままで、♪もっとしあわせに〜と「ピンク・タイフーン」を歌っていたのだ。そのことに気づいていた人は、当時どれだけいただろうか?

それを思うと胸が締めつけられる。今から40年前の5月、切ない映像である。