「カルメン’77」はオリコンのシングルチャートで1977年3月末から5週連続1位を獲得、ピンク・レディーの人気はますます沸騰していた。

しかし、この頃から彼女たちに異変が生じる。ケイちゃんこと増田惠子さんの自叙伝「あこがれ」によると、歩いていても足に地面の感覚がなくフワフワしている、常に微熱があり身体がだるい、朝シャワーを浴びていると吐き気を催すなどの症状に苦しむようになったという。デビューから半年で、体重はなんと10キロ近く減った。ミーちゃんの方も夜中に胃けいれんに襲われるようになった。(ちなみに当時2人は下宿先の同じ部屋で寝起きを共にしていて、ミーちゃんが胃けいれんを起こすとケイちゃんが背中をさすってあげていたという)
原因はひとえに、前年8月のデビューの前から続いていたオーバーワークである。「ピンク・レディー伝説」の一つとして「毎日寝る時間もないほど仕事を入れられていた」と言われているが、それは人気が出てからではなく、既にレコードデビューの約1か月前から、プロモーションのために、テレビ、ラジオ、雑誌の取材、グラビア撮影、地方キャンペーンと事務所が仕事を入れまくっていたらしい。
振り付けを手がけた土居甫氏の著書「俺とピンク・レディー」によると「カルメン’77」の振り付けレッスンの時、いつもは熱心に食らいついてくる2人が、この日はダラっとしていて投げやりな態度、「ああ疲れた」を連発する。土居センセイの目には、彼女たちが少し天狗になっているように見え「スターぶるのもいい加減にしろ!」と大声でカミナリを落としたという。2人は平謝り。ところがセンセイ、後でマネージャーから2人が超過密スケジュールでロクに寝ていない状態だったと聞き「あのときは、ほんとうにごめんよ」と改めて本の中で謝っている。
その土居センセイによる「カルメン」の独特な振り付け、アイデアのもとは、故郷・宇和島の闘鶏なのだそうだ。カルメンと聞けば、安易にフラメンコを取り入れたりしそうなものだが、それでは何の芸もない、新しいものは生まれないとセンセイは言う。
にもかかわらず、5月2日の「夜ヒット」にピンクが再び「カルメン」で出演した際、番組のディレクターはフラメンコの大家、小松原庸子さんの舞踊団を招いて、コラボを試みている。

ピンク・レディーとフラメンコ、短い曲の間に両方を見せるのは難しく、はっきり言ってどっちつかずになってしまった感は否めない。
ケイちゃんはといえば、体調不良を押して健気に仕事をしていた訳だが、前回の出演から約1か月の間、災難続きだった。初めてのコンサートツアーでは、声帯を傷めてステージで声が出なくなった。NHKの番組ではリハーサル中に舞台から転落し右脚を負傷。経過が思わしくなく、その後仕事を数日休み、手術を受けた。その間ミーちゃんがひとりで仕事をしたのだが、香坂みゆきさんがケイちゃんの代役を務めたこともあったようだ。
この頃から、ケイちゃんには、怪我や病気で休みがちな、か弱い女の子というイメージがつきまとうようになる。その放って置けない感じが、また一部のファンの心をくすぐったのだが。