先日、デジタル製品の開発や製造をする会社のRICOH(リコー)から興味深い記事が公開されました。

 

「紙」に印刷すると間違いに気づく理由 =「画面」にはない脳の働きとは?=

 

要約すると、

・紙媒体で文章を読む際は脳が「分析モード」になる

・パソコンなどの画面を通して文章を読む際は「パターン認識モード」になる

・結果的に紙媒体のほうが文章の間違いを見抜きやすい

といった内容です。

記事の中では一つの例文が載せられていますが、それは以下のような文章。

 

「こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。」

 

ぱっと見だと文章の内容を瞬時に理解できてしまい、あまり不自然さを感じないのではないでしょうか。

しかし、もし仮に紙面上でこれだけの間違った文字列を見たら、瞬時に不自然さを感じるような気がします。

 

 

 

一文字一文字を目で追いながら文章を読むというのは、その内容を考察しながら読むことにもなります。

そのため、文字列の違和感以外の分野でも、例えば書かれている内容が不自然といった違和感があるなら、既知の知識や情報と照らし合わせて比較することになります。

結果的に、誇張表現や嘘の情報を見抜きやすくなるのではないでしょうか。

ところが、これが画面を通して得る情報ですと、目に入るいくつかの単語を瞬時に繋ぎ合わせて文章を構築してしまうことが多いものですから、仮に不自然な内容であっても既知の知識や情報で文章を補完したり修正したりしてしまい、内容を深く考察していないのかもしれません。

 

 

 

さて、そのように考えてみると、WT(ものみの塔聖書冊子協会)のような組織が紙媒体での情報提供を削減しようとしてきた方針は理にかなっている気もします。

もちろん、時代の流れに合わせたりコスト削減のためであったりといった理由は十分あると思われますが、信者に深い考察をさせないようにするためには画面を通して情報を提供したほうが圧倒的に有利なのかもしれません。

実際、宗教団体が提供する資料に長年浸かってきた人ほど多くの宗教的用語が身近なものとなっているでしょうから、新しい記事等が公開される度に「この記事は愛についての内容ね」、「この題目は寄付に関することよね」、「今回は平和の記事ね」などと、思考が条件反射的に特定の分野に向くのではないでしょうか。

そうであれば、WT側としては凝った内容の記事を毎回提供する必要はなく、長く使われている用語(もしくはそれに類する言葉や言い回し)を記事内の各所に散らしておけば、効率よく信者の心を掴んでおくことが可能なのかもしれません。

なぜなら、画面を通して記事を読む信者の脳は「分析モード」ではなく「パターン認識モード」のわけですから。

 

 

 

冒頭の引照記事の内容をさらに深く調べてみると、目に入る光の種類によって脳の反応の仕方が違うのは事実だと思います。

もしかしたらですが、様々な分野のデジタル化が進んだ今だからこそ、昔の古い手紙や写真などが洗脳(マインドコントロール)を解くきっかけになることもあるのかな?などと感じました。