川田晴久(1907年3月15日 - 1957年6月21日)川田 義雄

 

「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう」でおなじみの川田節の創始者。

脊髄カリエスで入院していた川田は退院後の1948年に「川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成して舞台に復帰する。翌年には姓名判断によって「川田晴久」と改名。「川田晴久とダイナ・ブラザース」としての再出発をした。

 

ひばりとの出会い。川田は横浜国際劇場に出演した際に人気歌手小唄勝太郎に花束を渡す役として登場した少女・美空ひばりと出会うことになる。川田が41歳ひばり11歳の時だった。川田は以来ひばりをそばに置いて可愛がり、その後スターへの道を登って行くことになる。美空ひばりの「師匠」「芸能界の育ての親」などと呼ばれるが、川田との接点は亡くまでの僅か8・9年であるが、その短い期間でもかつての川田の人脈などが、その後のひばりの活躍にひばりに与えた影響はかなり大きいと思われる。

元々、川田は昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアンでボーイズものの創始者である。灘康次をはじめ、多くの弟子を育てたことでも知られる。