藤本 二三吉(ふじもと ふみきち、明治30年〈1897年〉11月23日 - 昭和51年〈1976年〉10月29日)とは、昭和時代に活躍した歌手。本名は藤本婦美。元芸妓。葭町二三吉

大正14年(1924年)に「ストトン節」「復興節」「サイサイ節」ほか数曲の流行小唄を初めて吹き込んだ。『祇園小唄』娘の藤本二三代も『祇園小唄』をのちに唄った。

 

音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、大正、昭和時代に活躍した日本の歌手。本名は永井 満津子。東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町生まれ。『船頭可愛いや』『博多夜船』

 

美ち奴(みちやっこ、本名:久保 染子 1917年(大正6年)6月8日 - 1996年(平成8年)5月29日)は、昭和時代に活躍した芸者歌手。実弟は、ビートたけしの師匠で知られるコメディアンの深見千三郎(本名:久保七十二)。 美ち奴は、1933年(昭和8年)、松竹映画「東京音頭」のトーキー部分の撮影に浅草の芸妓衆のひとりとして参加。その甲高い唄声が評判を呼び、当時流行の鶯歌手(芸者出身の歌手)を探していたニットーレコードからスカウトされ、1934年(昭和9年)「さくらおけさ」でレコード歌手としてのデビューを飾る。『あゝそれなのに』(『うちの女房にゃ髭がある』

 

音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、大正、昭和時代に活躍した日本の歌手。本名は永井 満津子。東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町生まれ。『船頭可愛いや』『博多夜船』

 

市丸・江戸小歌市丸(いちまる・えどこうた いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)江戸小歌中村派17世家元。昭和6年(1931年)『花嫁東京』で歌手としてデビューした。同年、静岡鉄道のコマーシャルソングとして作られ、既に新民謡として知られていた『ちゃっきり節』を市丸の歌で発売すると全国的な大ヒットとなり、レコード歌手としての順調なスタートを切った。『三味線ブギウギ』『天竜下れば』

 

小唄 勝太郎(こうた かつたろう、1904年(明治37年)11月6日 - 1974年(昭和49年)6月21日)は日本の女性歌手。本名は眞野 かつ。旧姓は佐藤。葭町勝太郎 
芸者勝太郎として葭町花街に籍を置く傍ら、『島の娘』で歌手デビューしいわゆる「ハァ小唄」の流行を作った。1971年(昭和46年)に紫綬褒章を受章。(島の娘・東京音頭で一世を風靡)『明日はお立ちか』『勝太郎くずし』『島の娘』『東京音頭』『娘船頭さん』

 

豆千代(まめちよ、1912年1月2日 - 2004年3月22日)は昭和期の芸者、歌手。本名は福田八重子。

鶯歌手(芸者歌手)ブームによって、二匹目の泥鰌を狙ったコロムビアレコードが白羽の矢を立てたのが、美貌と美声で評判だった芸妓の豆千代であった。昭和8年(1933年)にコロムビア専属となり「恋はひとすじ」で歌手デビュー。『浮名三味線』『曠野を行く』

 

新橋 喜代三(しんばし きよぞう、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した歌手で、元芸者。
鹿児島県の種子島、熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。作曲家中山晋平の後妻。

 

赤坂 小梅(あかさか こうめ、1906年4月20日 - 1992年1月17日)は、昭和時代に活躍した日本の芸者歌手。本名:向山 コウメ。福岡県田川郡川崎町出身。 元々北九州小倉の芸者で当時の名前は「梅若」『ほんとにそうなら』

 

神楽坂 はん子(かぐらざか はんこ、本名・鈴木 玉子、1931年3月24日 ‐ 1995年6月10日)は昭和期の芸者歌手。1952年(昭和27年)に古賀作品の「こんな私じゃなかったに」でデビューする。『ゲイシャ・ワルツ』『こんなベッピン見たことない』

 

神楽坂 浮子(かぐらざか うきこ、1938年1月15日 - 2013年11月20日)は日本の歌手。本名:大野景子。東京の深川出身。高校生のときに神楽坂はん子に憧れ、高校を中退して芸者になる。後に、古賀政男門下となり、芸者歌手としてデビューする。市丸や榎本美佐江ら先輩日本調歌手に後押しされ、1956年には「十九の春」(作詞・吉川静夫、作曲・清水保雄:沖縄民謡の「十九の春」とは同名異曲)が大ヒット。

 

ウキペディアを参考にしました。