ぱんぱかぱーん!

 

記念すべき第一回河合隼雄ブッククラブ、大いに盛り上がって終了しました!

 

参加者は私を含めて4人。

 

この読書会に向けて、みなさん、びーっしり付箋を付けて準備してくださいました。

 

私も、読めば読むほど響くところが出てきて、「こりゃまとまって話せるのかな、、、」と本の内容の濃さに圧倒されていました。

 

ちょっとドキドキしながら、自己紹介のあと、河合隼雄に出会ったきっかけと、「魂にメスはいらない」の一番自分に響いたところについて話をしました。

 

お互い初対面なのに、相手がある程度理解していることを前提に話すので、すぐに核心をついた話になりました。

 

2時間、あっという間でした。

 

あまりに面白い話がてんこ盛りで、どういう風にまとめようかいろいろ悩んだのですが、

 

他の方の話は、プライバシーの問題もあるし、読書会で話した内容が外に漏れない、とわかっていたほうが、みんな安心して本音を話せるかなー、と思い至り、無難に、私の「魂にメスはいらない」の感想をお届けします。

 

えー、、どんなこと話してたのー、と気になる方は、ぜひ次回参加してください爆  笑

 

 

  「魂にメスがいらない」で響いたところ~魂の治癒としての表現行為

 

私が何よりこの本で深く刺さったのは、自己探索、カウンセリングと表現や芸術とのつながりについて詳しく述べられていたところでした。

 

去年から今年にかけて、「なんだか心の中がモヤモヤする、、、」と色々自己探索を進めてきたわけですが、この頃思うのは「自分の内面に進んでいく」ということは、色んな常識とか、社会で良いとされている価値観とか、倫理観とか、、

 

つまり「こうすべき」とか「こうあるべき」とか自分が思い込んでいるものをどんどん外していって、その奥にある自分の内面を忠実に表現することつきるのではないか、と考えるようになりました。

 

稚拙ですが、このブログでやろうとしているのもそういうことです。


自分にウソがないように注意しながら、私の内面にあることを出来るだけ正確に表現していく。どうしてもかっこつけたい自分が出て来ちゃって、ウソがなく書くってホント難しいですけど。

 

その意味で、この本の河合先生と谷川俊太郎さんの会話には、「わが意を得たり!」と思う箇所が多くありました。

 

 

(河合)自我というのは”説明可能な私”でそれは、本来的な私とちょっとずれている。特にソーシャルな場面に入っていくほど、お世辞も言わんといかんことがあったりしますが、その底のほうに本来的な自己というのがあると僕らは思っているんです。

 

・・(中略)・・

 

自我というのは変革できるが、自己というのは変革もくそもないわけで、何も名前のつかないようなもの、いわば無限の可能性みたいなのです。

 

(谷川)そうすると、たとえば人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね。

 

しかし、昔ながらの一種の精神修養や修身的な発想で行くと、人間というのは人格を作り上げていくものだという風にとらえることがありますね。

 

僕はそういう風に人格が作り上げるものかどうかと言うとやや疑問で、むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいに向いて行って見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか。

 

(河合)ぼくもそういう風に思います。ただその場合、むくのも自分ですので、それが出来るだけの力を蓄えねばいけない。

 

(谷川)もちろん、結局は本当の裸には誰も慣れないわけだけれども、自分の一番底の深いところにある自己に無限に近づいていくことは可能だと。その自己というものは、すでに善悪の判断みたいなものを超えているわけですね。

 

私は表面的にはとても幸せだし、過去にトラウマがあるわけでもないのに、なんだか心がすーすーするのは、この「自己」をうまく表現しきれてないからなんじゃないかな~、


そして「自分をラッキョウの皮をむくみたいにして見えてくるもの」を表現することで、自分の中の空洞を埋めていく癒しにつながるのではないかなと思うわけです。

 

やはり私が大好きな作家、坂口恭平さんがこちらで、

 

「何かを作る。僕はこの行為こそ、全ての人間に必要な楽しいことだと思ってます」といっていることや、

 

村上春樹さんが色々なところで、「僕は小説を書くときには、深い井戸の中に入っていく」と言っていますが、これも無意識の中に降りていって、そこにあるものを表現することを指しているのでしょう。

 

河合先生と言えば箱庭療法が有名ですが、これも無意識の世界を可視化させるための道具ですよね。自分の無意識を表現しているうちに癒されていく。

 

実は、去年色々迷ってうろうろしていたときに、何枚か絵をかきました。それがなんだかとても気持ちよかったので、またやってみてもいいかもしれません。


つい絵を描いたり、文を書いたりすると、「上手く書かなくちゃ」という意識が出てきてしまいますが、そうじゃなくて、自分の無意識につながれる力を信じるというか、そこから出てきたものを判断しない力みたいのが大切なんじゃないかと思っています。それが、ひいては人生の充実につながるのかな。

 

その他にも、この本のいろんなところに、自分の無意識を表現することへのヒントがありました。以下抜粋ですが忘備録に乗せておきます。

 

アクティブ・イマジネーション 無意識の物語 (p.65)

 

(河合)もう一つユング派で使うのは、アクティブ・イマジネーションと言って、たとえば私が夢の中で見知らぬ男に出会って、「ワーッ怖かった」ということがあったとしたら、その像との想像上の対話を覚醒時にやるんです。

 

まず、その男を呼び出して、「おまえはなにをしに来たんだ」と尋ねる。それで、その尋ねたことについて男が答えたことを書く。それを順々に繰り返す。ところが、その作業をすべて自前でやらなければいけないので、意識が強すぎると安物の作文になるんですが、非常に深い会話が出来ると面白くなる。

 

しかしそれにのめりこみすぎると書けなくなりますから、何とか意識を働かせながら書いていくわけです。

 

(谷川)詩の書き方もそれとほとんど重なり合っているところがありますね。

 

(河合)ただその時には、美意識とか、作品意識とかは全部排除するんです。

 

なるべく「ロー・マテリアル(生の素材)」を出すようにと激励するわけで、持ってこられたものについて芸術的な面から論じることは絶対ないですね。

 

(中略)

 

ユングはフロイトとわかれてからものすごく無意識の力が強くなって、恐ろしい夢をいっぱい見てそれを絵にしたりするわけですが、そのうちに自分のやっていることは科学なのか何のかわからなくなるんです。

 

そうすると、自分の心の中から「それは芸術です」という女の人の声が聞こえてくるわけです。ユングはその女に「これは芸術ではない」と言って論戦する。

 

それを僕なりに解釈していうと、「それは芸術です」という場合は、芸術的作品としての出来栄えとかそいういう方へ意識が行き過ぎて、無意識的な生の素材をできるだけ引き上げるということがおろそかになっている状態だとユングは考えたんだといっていいと思うんです。

 

(谷川)シュールレアリスムの「自動記述」なんて言うのはまさにその通りのもので、作品意識というのはほとんどなかっただろうし、あってはいけないと考えていたんだと思うんです。その点では、ほとんどユングの言わんとしていることと重なり合っている。ただ、今僕なんかがやっている詩の書き方には、完全に抑制という要素が入ってきますけどね。

 

 

P.129

 

(河合)僕らは「治療」という言葉を使っているけれども、いうならば、その人のクリエーションを助ける職業だと思っているんです。ただ、そのクリエーションをすることが商売になるかならないかというというところだけが、芸術家と一般人の違いだと。

 

 


「自我」と「自己」の間 (p.195)

 

(谷川)詩を書いている人間には、「文化的無意識」を含む無意識の領域そのものに到達したいと思っている人が多いんじゃないかと思うんです。例えば、河合さんが患者の言うことを聞いている間は、一種創造的な退行状態に入っている。それは、詩人が詩の行を出てくるのを待つ状態と非常によく似ている気がしたんです。

 

前に僕が、詩のもとになるエネルギーを感情よりも感動と呼びたいと言ったのも、感動というものに到達するためには、一種退行した状態でポケッしとてないといけないようなところがある。そのポケットしたときに、行ってみれば自我のレベルじゃなくて、自己のレベルで自由連想みたいなものがわりと活発に行われている。そして一番深い自己につながるような言葉が出た時に、詩を書く人間としては、一番満足するということなんですね。

 

なにか非常に深いところと瞬間的につながったという感じかな。自我と自己の間に一本の線がすっと惹かれたというか、そういう感じですね。

 

・・・今はそういうものを非常に持ちにくくなっているという状態がありますね。神話的なものが生きていた時代は、詩人たちも、自己の深いところで他人と共通のものをわりと持ちえたという感じがするんです。

 

いまでももちろん持ち得ているはずなんだけれども、共通のものというのがますます深いところに言っちゃって、そこまでなかなか到達できない。そこで、自己の深さの奥にある普遍性に到達する以前、つまり自我の段階で言葉を救い上げていると言えばいいのかな。

 

本当の自己でなくて、一種の個別性の段階で自分の意識下の言葉を救い上げているから、なにか詩人一人一人が難解なことをかいて、お互いに孤立しているような状態になっているという感触があるんです。

 

(河合)我々の今の社会にある統合というのは、自我による統合でしょう。それをさらに深めた自己の次元の統合への動きが背後にないといけない。