今日はパパの命日。

あれから1年が経った。

先月に一周忌と納骨を終え、親族絡みの仕事は終わり。
みなさんに参加してもらい、法要を行うというのは大変大事なことで、集まって頂いたのはありがたいことだけど、何だかパパを偲ぶというよりは段取りを全うしなければというようなカンジで私的には淡々と事を運ぶことしかできなかった。

お兄ちゃんやママは準備で大変だったと思う。

目的が何だかわからなくなっていた気もしなくなかった。



気付けば1年経ってた。
日々の生活に必死で今日という日を忘れていた。
自分がパパの死から目を背けていたのもあるかもしれないけど…


1年前の今日。パパはいなくなった。

最後の姿、やせ細ったあの身体、苦しそうな最期は今だに鮮明に蘇ってくる。

毎日何かとママとパパの話をする。
毎日思い出して悲しくなるのを抑えてる。


でも、本当は全て吐き出したくて、泣き叫びたくて、パパを返してと思わずにはいられない。


人の命は平等で、誰がどうとか裁くことは私にはできないけど、のうのうと悪いことをしながら生き続けている人を見る度に、「何故あの人ではなくパパなのか」と思ってしまう。


いつも傍で見守ってくれているはずと思いながらも、近くにその姿はない現実はそんな思いをも時に掻き消し、諦めさせる。


でもきっとパパはいるよーって思ったり。
その繰り返し。


いるなら出てきてみせてよと、
いるなら声をかけてよと、
せめて夢に出てきてよという願いさえ叶わない。


パパはこの1年どこで何をしていたのか。
そしてこれから先どこで何をするのか。


わからない。


ただ、この世にいないという事実だけが冷たく残る。


忘れられないあの姿、あの最期。

それはいつまで経っても私を、私たちを悲しませる。


ただただ生活しているだけで、前になんて進めてない。

人の死とは、大事な人の死とはそういうものなんだ。


いつでも帰ってきて良いのに帰ってこないパパ。

もう待つのは嫌だよ。
そんなこと思っても帰ってきてくれない。


いつの日か、また会える日が来るのだろうか。

一緒に暮らせる時が来るのだろうか。


巡り巡る思いは消えぬまま。
最近また、パパを思い出す機会が増えてきた。

お盆が近づいてるからかな…


思い出すのはパパの死に際。
苦しんで意識もなかったであろうあの姿。


声をかけても届かなかったあの姿。


パパがいないことがまだ信じられない。
とゆーか信じたくない。



ましてやあんな風に苦しみながら逝ってしまったかと思うと余計に受け入れたくなくて…


パパはあの時何を思ったのだろう。


パパはあんな風に逝っても楽になれたの?


最後の私の声は聞こえたの?



目に焼き付いて離れない。


助けてあげたかった。

どうせならもっと安らかに楽にしてあげたかった。



苦しくて、苦しくて苦しくて苦しくて…


パパの声を聞きたくて、パパと話をしたくて、せめてパパの顔を見たくて。


でもどれもできない。



それが「死」というもの。



きっと、あっとゆー間に一周忌を迎え納骨をして、そうやって時を重ねていくんやろうけど、周りがどれだけ進んでもここから先にいくことができない。




お盆にパパは帰ってきてくれるのかな…


夢でも幻想でも良いから、ただ会いたい。



欲張りかもしれないけど、今、天国で幸せに過ごせているのか教えて欲しい。



それだけで安心できるから…
4日、すーと海へ行った。
ナビの指示通りに行ったら変な道ばっかり通ることになってヒヤヒヤしながら峠を越え、福井の和田浜に着いたのは14時半。


福井はおじい&おばあの住んでるところ。
小さい時には毎年家族で訪れていた場所やから、そんなとこにすーと行くことを嬉しく思いながらも、やっぱりパパのことを考え心には霧がかかってしまった。



到着後すぐにダイエットや身体を鍛えることを怠っていた自分を悔やみながらも水着に着替えて砂浜へ出た。


和田浜はキレイなハズなのに、先日の豪雨の影響で草木が流れ着き水は濁っていた。


それでもすーと海に浮かびながら遊んでゴハン食べて、来た時よりも短い時間しかいなかったのに、それでも満足して海を去った。


帰ってからはいつものコース。



次の日は起きてから思いつきで奈良へ行った。


またもやナビに躍らされながら着いたのは16時半すぎ。


大仏の拝観時間もわずかな中、しっかりと見て回り、出てから鹿とたわむれてみた。


奈良は1回の時、ダイゴやあっちゃん、たけちゃんと原チャで行ったぶり。


鹿も相変わらずの量。


何故か鹿に鹿せんべいをあげて追い掛けられるというスリルを味わいたくなってやってみたものの、ヤツらのパワーはすごすぎて、何で売店のたこやきとかには見もくれへんくせに鹿せんべいにはそんな執着すんのやろうってビックリした。


あいつら可愛くない…



東大寺の中でひいたクジで私は一番の大吉ですーは凶やった。


すーはそれをすごく引きずっていた。


「タイミング悪い」って。


確かに、7日にすーの教員採用一次試験の結果発表が迫ってた。
私だって忘れてた訳じゃない。

すーが凶でも私が大吉やし、すーの祈りは私の祈りでもあるんやからきっと叶うんやって信じようって思った。





そして今日、7日。


毎年恒例びわ湖の花火を見に行く前に、県庁へ発表を見に行った。



胸が騒いだ。


すーが緊張してるのもわかった。


何だか繋ぐ指先の力が強くなるのを感じた。



でも、もう一人の自分は冷静やった。


すーの合格を祈ってはいるけれど、1、2ヶ月集中して勉強しただけのすーの頑張りを認めれないとこもあったから。


「本気」

って、そんなものなのか。

「夢」

って、それ位の力で追いかけるものなのか。


そんな風に思わずにはいられなかったから。



だから私も「本気」にならないようにしてた。

今までみたいにすーの将来に本気になっては自分の心が折れてもう頑張れない気がしたから…


頑張ってるって思いながらも、それではもっと頑張ってる人には勝てないって思ってずっと苦しかった。


もしあかんかった時にすーはどうするんやろうとか、私はどんな言葉をかけるんやろうとか考えてたらツラかった。


もうこれ以上2人の見えない先を夢見てしまうのは心がもちそうになかったから。




そんなことを考えてたら、気付けば県庁の正面に来ていた。



掲示板を前にすーの動きが止まった。


出てくる言葉に耳を澄ました。



「よっしゃ!あった!」


その言葉を聞いて、すーの言ってた番号を確認して見つけた時に色んな思いが散って、ただただ嬉しくて涙が出た。



まだ一次なだけで合格ではない。でも、すーの思いが報われてよかったって思った。


自分で稼いで生きていくということを、すーは少なくとも私が考えるに疎かにしていると思う。


考えていない訳ではないと思う。


きっと焦ったり不安に思ったり、色んな気持ちでいるんやと思う。



でも、それにとらわれてばかりで行動に移さないことに対しては許せないというか、遺憾というか、認めることはできないでいた。


それでも試験を受け続けるすー。


それは夢だからか何なのか、彼にとっての本気だからなんだろうって思う。



結局、私の中には色んな気持ちが渦巻いてるけれど、涙か溢れるほど嬉しかったことには代わりない。


2次試験はどうなるかわからない。


だからまた私は心をニュートラルに切り替える。


結果の発表があるまで、すーが自身で自分の力で立ち上がろうとするまでは、きっとそのままかもしれない。


でもすーとの時間は素直に楽しいって思う気持ちは忘れてない。


それを証拠に花火だって楽しく見ることができた。


前に座った複雑な家庭なんかわからない子とじゃれあいながらも…



もしかしたらこれからがすーの凶が訪れるのかもしれない。

それは私にとっての凶となりうるのかもしれないけど、私の大吉パワーがそれに勝り、2人して大吉じゃなくても凶を繰り上げてしまえたらなって思う。



よくわからんけど最近の記述。
今の時季とは真逆のフレーズ。


ご存知の人もいるかとは思いますが

10-FEET INFINITY 16 welcomez MINMI

の楽曲であります。


高校の時、仲良かった先輩によくミナミのイベントに連れていってもらってました。


ある時先輩が回すイベントで
「今日むっちゃ歌ウマイ人来んで!」
って言われて出会ったのがMINMIでした。


むちゃんこ歌ウマくて引き込まれて聴き入ってしまい、まだデビューしてない彼女の自主制作CDも買ってその後も運よく先輩のイベントとも重なって何回か行っていました。


その後MINMIがデビューして驚きよりも納得感の方が圧倒的であったのは言う間でもありません。



しばらくご無沙汰していたのですが、やっぱり彼女の歌が好きで去年の秋からしばらくはヘビーローテーションとなってました。



そんなMINMIの歌をカラオケに行くともちろん歌ってみる訳です。
この前彼氏と行って大好きな「真夏のオリオン」を歌ってみました。



涙をこらえるのに必死でした。




良い歌は良い歌なのですが、だからって訳ではないのです。



この曲を聴いて思い出すのは、京都から父の入院している病院へ行く道すがら。


遠いなとか思いながらも父のことを考え母のことを考え、様々な思いを巡らせながら向かったあの道。

荷物抱えながら見上げた病院。


そして行きよりも激しく心震えていた帰り道。



父が亡くなる前に病院へ行った時も…


駅から病院までのしばらくの歩きはこの曲と決めていたから、その時ももちろんそうだったのです。



父が亡くなってからしばらくは聴いていませんでした。
決して拒絶していた訳ではなく、ただそんな気分じゃなかっただけなんですが。


でもカラオケでは歌ってたんです。

彼氏とドライブする時も聴いてたし、そんな風景も思い出しはするんです。



何でかわからない。
何であの時あんなにも明確に鮮明に蘇ったのか。




泣いてはないですが。


堪えて耐えることはできていたのですが。



ずーっとあの曲は私にとって一番心に残るものになっているのでしょう。




父が亡くなり3ヶ月たちました。

ブログ見たら歴然。
父のことを悲しまない日はありません。


会いたい。


帰ってきてくれないのでしょうか。


とにかく会いたい。
わがままで欲張りな私の夢が1つ叶った!!
飛び上がりたい位に嬉しすぎる。



だから今日はある意味記念日。


こんな短い文章でも更新しちゃうぞー!ぷー
やっぱり父のことが頭から離れない毎日です。


何かにつけて思い出してしまう
考えてしまう…



何かに没頭している時は大丈夫なのに、1人でいるととにかくツラくて寂しくて…



母から相続の手続きのことで連絡を頻繁に取り合う日が続いています。


いつもは「欲しい!もっと欲しい!」と思うお金も、もらえることになってもちっとも嬉しくありません。


むしろ全財産いらないから父に帰って来てもらいたい。

これから先手に入る全ての財産さえ投げることができる。



父がいた時はそんなことや父に対する思いなんて薄いものやったのに今は真逆の考え。


自分の幸せの矛先が父の存在へと向いています。



いまさらそんなこと思っても遅いのに…




今月末は父の四十九日が訪れます。


それを経てようやく父は成仏できるようなのですが、天国へ早く行ってゆっくりして欲しいと願うばかりです。


今はまだ修業中だとお坊さんは話してました。


どんなツライ修業なのでしょうか…


父は大変気丈な人なので大丈夫とは思いますが、それでも1人で立ち向かうことを考えると心配せずにはいられません。



もう1度父に会いたい。

もう1度幼い時のように抱きしめられたいです。



祖父母とは亡くなってから夢ですら会うことができてないです。

もちろん祖父母とも会いたいですがそれ以上に…



父と会いたいです
元気で楽しくは働けてるし、何だかんだで毎日過ごすことはできてる。


仕事は正直まだボケてるとこあるけど、精一杯頑張ることはできてる。



でもやっぱり落ちてしまう。

何かにつけて父のことと結びついてしまうのです。


バイトの子が「どうしよう…私のお父さんもヤバイんです。」って話してくれたのもきっかけの1つ。




あの日、父がガンであることがわかってからのブログを読み返し続けてる。


正直あの頃のツラさがどんなものであるのか今の私は忘れてしまった。


あの時はとにかくツラかったし悲しかったし、絶望感に溢れてた。それは覚えてる。


あれ以上のものがあるなんて全く考えてなかった。



でもそれはやってきた。


受け入れたくなくても容赦なく訪れた。


そしてそれはあの頃の気持ちなんてバカバカしく思うものだった。



何を信じてきてたのだろう。

何を根拠に希望を持ち続けていたのだろう。


父に元気になって欲しい思いでいっぱいで、ただそれだけで、それは真実。


でも…叶わなくて…



何で私にはお父さんがいないんやろう





家に帰っても泣くことは少なくなった。


今まで父と一緒に過ごしていない時の方が多かったから、それに慣れてるからなのか。



単身赴任してた時
私が父を避けてた時
実家を離れた時

そして父が入院した時…



私に節目が訪れる度に父はいなかった。



それがあるから、今も実家に帰って父の遺影を見てもよくわからない。



また単身赴任に行っているのだろう。


まだ入院中。



そんな風にしか考えられずにいて、でも実際はもう父とは永遠のお別れをした後…


「次」


がもうないの。


現実ではもう会えないの。


何で?



何で?




天国へ行ったんだよ、と誰かが言ったとして、まるで小さな子に言い聞かせるようにそう言ったとしてもよくわからない。




パパに会いたい。


もう一度触れたい。




落ち着いたと思ってたけど、まだ私の中には残ってる。



吐き出したい、叫びたい位の悲しみが。



思いっきり声をあげて泣きたい。




何も考えずに泣きたい。




苦しい…
まずは皆様ご心配おかけし申し訳ありませんでした。


以前書いたものはあくまでも自分の中の「記録」のためであり気持ちの整理をするためのもので、読み手のことを全く無視したものでした。

しかしmixiにもリンクを貼っており、多くの方々が目にすることは歴然だったのにも関わらずにあのようなブログを全員が見れる状態で更新してしまったことは、私自身の不徳の致すところであったと大変反省しております。


申し訳ありませんでした。



ですがそんな中でも温かいコメントやメールを下さった方々には本当に感謝しております。

本当に嬉しかった。



ありがとうございます。



この反省を踏まえて今後はmixiのリンクからブログを外そうか、もしくは独り言専用の別のブログを立ち上げようかと考えております。


一旦はmixiから外したのですが、お詫びを公開せずに消すのではあまりに失礼だと思い、また復活させることにはしました。


何らかの変更はするつもりです。その方法はこちらでお伝えするかはわかりませんが今後ともどうぞよろしくお願い致します。





さて、近況ですが18日に京都に帰ってきて20日より仕事に復帰しています。



お店の子もすごく心配してくれて気を遣わせてしまって心苦しい日々です。



正直まだ胸に何かがつっかえているというか、本調子ではありません。


「大丈夫」とは言い切れないのが現状です。
「大丈夫じゃない」とも言い切れないのですが…




ふとした瞬間に父のことを思い出して情緒不安定な状態が続いています。



10日に帰省した時以来に着たコートを20日に着ました。
その中に父が書いた「家に帰りたい」というメモが入っていました。



それを見つけた瞬間、頭から離れず、父の姿が焼き付いて離れずにどうしようもない位の虚無感とか絶望とかそんな類のものに襲われました。



夢には以前清拭した時見たやせ細った身体とその時見せた生気を失った表情の父が出てきました。



でも目を閉じて浮かんでくるのは病室で苦しい中にも私に言葉をかけてくれようとする一生懸命な父の姿。

ふとした時に見せた父の笑顔。


それらなのですが、でも本当にふとした瞬間に自分がどんな状態なのかわからなくなるのです。



笑い方も、人との話し方も、見せ方も何もかもがわからなくなる。



まだまだ父の死とは向き合えてないし、消化することもできてません。



でももう日常に戻ることを決めてそこに身を置いた限り、世界は私の思いなんてお構いなしに回る。



わかってはいたけど、実際そうなるとついていけずに戸惑ってしまう。



まぁまだ復帰して2日。そんなすぐうまく行く訳ないんですけど…



めげずに頑張ります。
助けを求めながら、少しずつ自分の足で歩けるように。



かけがえのない存在を亡くすことなんて想像もできなかったけど、ものすごい大打撃。




みなさんも健康診断絶対受けてくださいね。
おかしいと思ったらすぐに病院に行ってください。



そして今いるご両親や家族を大事にしてください。
自分が思う以上に、やりすぎって思う必要ないので全力でぶつかってください。

気持ちを伝えてください。



それでもきっと後悔は残るかもしれません。
でも少しでもそれがなくなるように…





それが私が父の死で学び反省したことです。



みなさんの大事な人にみなさんの気持ちが伝わりますように。



そして一人でも多くの方が同じような思いをしないように…




それを心から願っています。
13日朝、母の声で目が覚めた。



2階で母の姉妹達と何やら話をしているようだった。


母姉妹は本当に仲が良い。
言い合いもしてるけど、お互いを思いやり助け合ってる様を見て羨ましかったし、私も兄とずっとそんな関係でいたいなぁって思った。



朝ゴハンを食べて身支度を整えていたら弔電がきた。


大学の友達のはぎちゃんからだった。
代表して友達みんなでやってくれたみたいやった。


うれしくてうれしくて泣けた。



みんなと全然会えてないのにこうしてツライ時に何かしてくれて…

良い友達持った。


メールくれた子もいた。
かなり励まされたよ。

みんなありがとう…




そして母と私は和装することになっていたので着付けの時間まで父のそばにいながら話をしていた。





11時半すぎ、
先生が来られ母から着付けをしてもらった。

先生も旦那様を随分前に亡くしそれから着付けの道に入ったのだと言っていたけど、とにかく頼もしくてかっこよかった。



母が終わり私も着付けてもらった。

着物を着るのは久しぶり。苦しいかもと不安だったけど、先生の着せ方がとにかく上手くて洋服と同じ位に楽に感じた。



母はどうやら先生に感化された模様。単純やなぁ…



2人揃って着物を着るなんてないからすごく新鮮だった。


父は私の着物姿はきっと七五三以来見てないはず。


それもあって母と和装を選んだ。父はどう思ったかな?




用意ができて下へ行くと、また福井から母の従兄弟2人が来てくれてた。


2人共に目に涙を溜めながら…


「何でや…何でや…」
ってずっと言ってた。


おじちゃんとはおばあちゃん家に行った時位しか会ってないのに、父もそのはずなのにこんなにも悲しまれるなんて、何て素敵な人なんだろうってまた思って、せっかく少し落ち着いていたのにまた涙が出てきた。




12時半
親族が着々と到着。

20年ぶり位に会う従兄弟もいた。


そして記念撮影をすることとなった。


父の遺影の前で皆並び撮影した。初めてなのでよくわからないけど、こんなことってあるの?





13時。
父の告別式が始まった。

少し遅れてすーも来てくれた。


そしてまた少し遅れて私の店の店長とさらに上の上司が来てくれた。びっくりした。


ご焼香を難無く終わらせしばらくした後、誰かが駆け込んできた。



見たら大学の友達のたけちゃんやった。またびっくりして訳わからんかったけど、すごい嬉しかった。




滞りなく念仏とご焼香が終わり、近づくのは父との別れ…





棺桶を開けられ顔を見ることができるのはこれが最後。




父の周りを沢山の花で囲んだ。


花の好きな父はどんな気持ちだったのだろう…
好きな花に囲まれることができたのだろうか。



本当は、本当はもう一度父の手を握りたかった。


父の顔に、髪に、触れたかった。



でももうできなかった。



蓋が閉じられた。

もう開くことのない蓋が…



父が目を覚ますかもしれない。だから閉めたらあかんってまだ思ってた。



まだ起きてくれるって信じてた。



こちらの思いが届く訳もなく、段取り良く事は運んでいき出棺の時間となった。



車の中で、火葬場のことを考えたら涙が止まらなかった。



もう父は戻れない。
戻ってきたくてもあそこに入れば最後…



母と2人で沢山泣いた。



あっとゆー間に火葬場へと着いた。



嫌だ
嫌だ
嫌だ…



そう思っても誰も止めてくれない。


もう泣きわめいても何も変わらない。


わかってても嫌で仕方がなかった。



そのまま父を連れて帰りたかった。
渡したくなかった。





私の叫び声も届かず、無情にも父は焼却炉の中へと運ばれて行った。



よたよたとしながらも控室へと連れていかれた。



父と仲の良かった伯父に
「おまえは昔も泣き虫やったけど、今も変わらんなぁ。パパはお前の話ばっかりしとったで。」って声かけられてまた涙出た。




もう限界やった。




すーがずっとそばにいてくれたからよかったけど…



兄が喪主の母代わりに挨拶をし、会食が始まった。



泣きすぎたせいか喉がすごく渇いていた。

隣にいたすーも緊張してたみたいで2人して何かおかしかった。




本当は食欲なんてなかった。

父の姿を考えたら無理だった。



でも兄と母が父の葬儀のために必死になって料理も考えてくれたの知ってたから、無駄にはできないって思って頑張って食べた。



しばらくして、母がすーのことを親戚に紹介してくれた。


そしたら1人のおじちゃんがすごくすーのこと気に入ってくれて2人していっぱい話すようになってた。


嬉しかった。


みんなの目に適った人ならきっと父もうれしいやろう…



仲良く話す2人を横目に私は皆のお茶だしやらに励んだ。



そしてまた時間は過ぎた。


16時過ぎ
皆で焼き場へと向かった。

怖くて見たくなかった。
どうなるのか頭ではわかってたけど、理解できなかった。



父が出てきた。

でもその姿は私の知ってる父の姿じゃなかった。




本当に綺麗な白骨だった。

模型とそっくりで、祖父母の時とは違い骨が綺麗に砕けずに残ってた。



頭蓋骨なんてそのままで、それが本当に怖かった。悔しかった。



でもそのままじゃ骨壷には入らないから砕くしかなかった。



喪主の母は父の喉仏の骨を取っただけで、それ以降は父の遺骨からは離れて俯いていた。



何十年と連れ添ってきた人が白骨になってしまった姿は私が思う以上にツライものだったと思う。



病気で長い命ではないとわかっていたって、先の未来を夢見て希望を持って信じていたのだから尚更だと思う。



私も辛かった。



きちんと取ってあげないと、父が天国へ行った時に苦労するんだと知識としてはわかっていたけど、親族で群がり父の骨を啄む姿を見て吐き気がした。



いっそのこと砕かずそのまま連れて帰りたかった。



目を背けることしかできなかった遺骨拾いも、私や母がどれだけ嫌がっても滞ることなく済まされる。
それを終えた後には初七日も一緒に行うことになっていたため、まだ温かい遺骨を抱いた母を連れ一緒に法要へと向かった。



祖父母の時とは違いあまりにも短くて驚いた。これも宗派や地域性の関係なのか。



お坊さんは本当に良い方だった。優しくて親身で安心した。



生前の父は何かあるとお寺に行きお坊さんの話を聞いていたと母から聞いた。
私もまた聞きたいと思った。

私は特定の宗教を信仰してる訳じゃないけど、お坊さんのお話のおかげで少し心が救われたのを感じたから。



そしてその後、直ぐさままた葬儀を行った会場へ戻り、時間が押し迫っていたために慌ただしく解散することとなった。




あっとゆー間だった。

本当は長い1日だったのだろうけど、父と最期の別れをするにはあまりに時間が短すぎた。



泣きすぎて身体もおかしかった。



参列して下さった方々をろくに見送れないままに着替えて準備をし、家路へとついた。



葬儀は終わっても悲しみや悔しさ、情けなさという類の感情が止むことはなかった。




家へ帰ってすぐ、葬儀屋さんが来て父の仏間を整えてくれた。


それをただただ眺めてた。



葬儀屋さんが帰ってからまた涙が止まらなかった。



ずっとずっと泣いた。

嗚咽が止まらなくて苦しかったけど、どうすることもできなかった。




父が本当に死ぬことで苦痛から解放されて楽になれたのなら、悲しんではいられないと思った。
だけどもし、そうでなければ…



父の考えてたことを今理解する術はないから答えはわからない。


あまりに悲しみすぎて、父にいてほしいという気持ちが強すぎるあまりに、父が成仏できなければそれはもっと悲しい。だからきちんと受け止めなきゃって思ったけど…無理だった。



目一杯泣く以外に何もできなかった。



父の部屋へ行き父の服をクローゼットから出してみた。
父の写真を眺めた。
父の匂いを探した。



私が知ってる父、
私が好きな父。



でも残されたのはもう着ることも使うこともできないものばかり。
あとは父の戦ったあとである消毒液と血痰の染み付いた匂いのものだけだった。



せめて父と一緒にいる気分になりたいと、父のいる仏間で父の使っていた布団でその夜は寝ることにした。



兄や母が心配して覗きに来てくれたけど、どうにも止まらなかった。


というか母も今までに見たことのない顔で泣き伏せていた。


だけど励ましたり慰めたりもできなくて、ただ一緒に泣くしかできなかった。



いつになればこの悲しみは癒えるのだろうか。


いつになればまた家族揃って笑えるのだろうか。



一家の大黒柱を失った我が家には不安の色しかもうない。


今はゆっくり、 父を亡くした悲しみに浸ることしかできない。
終わりました。
終わってしまった…

あっとゆー間だったな…




12日の深夜、私と母は一時帰宅し手をつけれてなかった家の片付けや、葬儀に向けて父の遺影用の写真を探したり父への手紙を書いたりと一睡もせずに朝を迎えた。



兄は病院からそのまま父と一緒に葬儀場に向かい、葬儀屋さんと打ち合わせをして明け方帰ってきた。




よくわからないままだったけど、とにかくショックで涙が止まらなかった。


時折部屋の外から母の嗚咽が聞こえて余計にツラかった。




朝葬儀場に行き、父に会った。



ドライアイスを詰められた身体はまだ温かかった。
生きてるんじゃないの?って疑う位、あったかかったし柔らかかった。


でももう人形みたいで呼んでも呼んでも動いてはくれなかった。



ずーっと涙が止まらないままに父の身体に手を添えたままその場に立ちすくんでた。



兄は慌ただしく葬儀の打ち合わせに追われ、母は茫然として時折うつらうつらと今までの疲れから現実と夢の世界を行ったり来たりとしていた。



父はとにかく綺麗だった。



一時期抗がん剤で抜け落ちていた髪もフサフサで綺麗で、やせ細った顔も手も腕も肌も綺麗で整っていた。


病院を出る前に私が施した化粧のせいか少し血色も良く見えて本当に安らかに寝ているようだった。



だから何度も何度も起こしてみた。
でも全く起きてはくれなかった。





昼になり母と気分転換に食事に出掛けた。


生気を感じられない母だったけど、いつもと違う場所での食事に気を紛らわすことができたのか、ちゃんと食べてくれて安心した。



最近までは病院と家との往復でろくに食事も睡眠もとってなくて、あんなに丸々太ってたのにすごく痩せて小さくなってて心配だったから…




戻ってからは父の棺桶へ入れる天国に持って行ってもらうものの絵を描いた。


父が好きなビールや今まで食べたくても口にできなかった沢山の食事。

大事にしていた車やいつでも家に帰ってこれるように家の鍵や連絡が取れるように携帯も描いたし、疲れやすい父のためにマッサージ機、旅路でもしものケガのために絆創膏やマキロンなんかもいっぱいいっぱい描いた。



そしていつの日か母と一緒に行けるように温泉旅行のチケットも。



あんなに沢山持っていけるかわかんないし、また父に「こんなよーさん荷物積んで!」って怒られるやろうけど、無理矢理でも良いし持って行ってもらうことにした。





15時。

納棺の時間になった。

祖父母の時は田舎の葬儀だから親戚中でやったけど、ここでは全部専門の方がやって下さった。



父の髭を剃り髪を整え、新たに化粧をしてくださって着替えも全てやってくださった。


そして綺麗に身支度を整えた父は棺桶へと入った。



嫌で嫌で仕方なかった。


もう手を繋ぐことも抱き着くこともできないから…



でも時間は迫っているしどうしようもないのもわかる。



我慢するしかなかった。



納棺をしてくださる方がとても丁寧だったから、それが何よりの救いだった。


でも…あんな風に棺桶に入るのなんて許せなかった。


父ともう交わることのできない境界線を引かれた気がして苦しかった。





納棺が終わってからしばらくして、すーがわざわざ京都から私の荷物を持ってきてくれた。


まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったから一日分の生活用具しかなく、ましてや喪服なんてものも用意してなかったから本当に助かった。



すーはバイトがあるからすぐ帰ったけど、少しでも顔を見れて安心した。





17時。
着替えてしばらくしたら続々と母方の親戚が集まってきてくれた。


みんな泣いてた。


それ見て「すごく沢山の人から愛されてたんだな…」って思って、父がいなくなったことが余計に悲しくて涙がまた止まらなかった。

まだ母方の親戚と会った時は元気でいたもんね。



みんな私と兄に声をかけてくれた。

「いくつになっても親が死ぬのはツライもんや。でも何でこんな早くに…」
って言われてまた涙が溢れた。




父方の親戚も沢山集まってきた。



父は6人兄弟で、その中で私や兄と深く付き合っていたのは2人の人。

でも私は中学上がる前までしか会ってなかったから見た時誰か全然わからなかった。


他の人もみんな初めて会う人ばかりだった。


でもみんな私のことを知っていて声をかけてくれた。




父と仲の良かった伯母は入院中に何度か父の見舞に行ってくれていた。

その伯母から
「かよちゃんの彼氏の話恥ずかしそうにしてくれたんやで。嬉しそうやったで。」
と聞かされた。



びっくりした。

涙が止まらなかった。



勇気出してすーのこと紹介したけど喜んでくれてたんや…


2人のこと認めてくれてたんやね。



父の口から直接聞けず不安だったことを知らされて安心したのと嬉しかったので胸がいっぱいになった。



こんなことならもっと早く勇気出しておけばよかったな…




父の兄弟は結局、2人だけ連絡が取れなかったり入院中で来られなかったけど、今までこんなに集まることなかった父の家族が一堂に集まることができつ嬉しかった。



ただ…、父や母から聞いた話、兄弟間でかなりの確執があるらしくそれが悪い方に向かないか私達家族は冷や冷やしてたのだけど。





18時。
お通夜が始まった。


お坊さんは単車で来て、少しヤンキー上がりみたいやったから不安やった。



日蓮の念仏も初めてで、ご焼香のやり方も違うし、何より「遺族」であることが初めてだから変な緊張感もあった。




念仏が終わった後、お坊さんが私たちにお話をしてくださった。



「寝ても苦、
覚めても苦、
食べても苦の時に
お釈迦様が手を差し延べて下さって天国へと連れて行かれるのですよ」

「かくれんぼでは探してる人には見えないけど隠れてる人には探してる人が見える。その様に故人からはあなたたち皆の姿が見えているのですよ。」


と。

私たちの目を見てしっかりと語って下さった。



父は確かにもう寝ても覚めても苦痛が付き纏い、食べることも飲むこともできない状態でとてもツライ思いをしていた。

だからきっと神様がそれから解放してくれたんだってそう信じようって思えた。



力強いその言葉に私は元気をもらえたけど、でもやっぱり辛くてまた涙が溢れた。



お通夜が終わり、2階の座敷で会食の時間となった。


兄は親戚の間をお酌し走り回った。

母は来て下さった方々に挨拶に回ったり、先ほど伯母から聞いた父が私の彼氏と会って喜んでいたという話を自慢気に周りに言い触らし歩いていた。


次の日の告別式もすーは来てくれることになっていたので、皆にお披露目する気満々のようだった。


母も余程嬉しかったんやなぁ。
そりゃ父の許しがあって一族で一番強い力を持つ伯母のお墨付きとあれば、もう婚約同然。
母も私たちのことは心配していてくれてたし安堵してのことだったのだろう。


明日は大変なことになりそうやなぁ…



そうは思いながらも、私は1人何をして良いのかわからずに佇んでいた…



父がいなくなり、1人じゃ何もできない自分に気付き情けなかった。


パパっ子だった私は父の隣でいつも笑ってるだけでよかったのに、今はそれもできなくて、居場所がなくて苦しかった。



食欲もなく、話す気にもなれず、ただただ座って父の遺影を眺めてた。


階下に一人残された父のことを思うと今すぐ飛び出したい衝動にも駆られたけど、父のいない今はこれからのことも考えてきちんと親戚付き合いしなきゃなとか思ってそれは改めたけど、そんな風に考えなきゃいけない大人になってしまったんだなーって、ただ泣いてるだけじゃだめなんだなーって思うとまた自分が情けなくなった。



しばらくしてから父の弔問に来てくれた人がいた。


母の従兄弟だった。

母の従兄弟もまた泣いてくれていて、仕事帰りに急いで駆け付けてくれて嬉しかった。



愛されてたんだなぁ…



母も仲の良かった従兄弟が来てくれて嬉しそうだった。




そうこうしているうちに会も開き、私と母と母の姉妹夫婦はそのまま一軒家のようなこの会場に泊まることとなった。




色んな準備をしながら、私と母は父のすぐ傍で寝た。

線香の煙が喉に入り苦しかったけど、それでも最後に父の隣で寝たかった。



いつ起きるかわからないと父の帰りを心待ちにしながら…


でも今にも起きそうなのに、呼んでも呼んでも父は起き上がってはくれなかった。



ガンやって知った時、
「死んでたまるか!」
って言ってたのに…



生きようと必死で戦ってきたのに…



次の連休には帰るって約束したのに…


何を思っても、父が起き上がることはなかった。