「自分」とは何かシリーズ、深みにはまっています
ぼちぼち考えていて、次の命題(?)を思いつきました
「自分」を持つとは、孤独を恐れない勇気を持つことである。
ちょっと前に見た映画で、共感してしまったのが、「ハンナ・アーレント」という哲学者の映画です↓
ドイツ生まれのユダヤ人、アーレントは、ナチズムの台頭後、アメリカに亡命します。
第二次世界大戦後、ナチス戦犯のアイヒマンの裁判が、イスラエルで開かれるので、彼女はその裁判を傍聴し、レポートを書くことになりました。
ユダヤ人の同胞たちは、アイヒマンを極悪人として断罪することをアーレントに期待するのですが、彼女は戦争中アイヒマンは「組織の一員として」判断を下しており、「個人として」は極悪人でもなんでもない、どこにでもいる普通の人だった、という結論に到るのです。
アーレントは、これによって世間から批判を浴び、古くからの友人たちを失ってしまいますが、自分の主張を曲げることはしませんでした。
…という、なんとも切ない映画でしたが、アーレントは、友達を失っても、自分の頭で考えたことを曲げないことで、個人として「責任を持つ」とは何か、というのを体現しようとしていたのだと思います。
ここでユダヤ人コミュニティの同調圧力に屈してしまったら、ナチス政権であくまで「上からの命令で」ユダヤ人をガス室に送ったアイヒマンと同じ罪(「凡庸な悪」)を犯してしまうから。
「自分」として自立することは、孤独というリスクを内包するもの。
ここで自分を誤魔化したら人としてダメだ!という譲れないポイントは誰しもあるはずです。
そのとき、孤独を恐れない勇気があるのかどうか。