最近、スダチという不登校改善のための塾が盛んにネット上で宣伝している。

「見守れ」「好きにさせろ」と散々色んな教育機関で助言された結果、不登校を悪化させて長期化させていませんか?

とのキャッチコピーで、「見守り」一辺倒の不登校対策に改善を加えようというスタンスの教育らしい。

「不登校」は自分らしく生きていることであって、決して敗北ではない、と一方的に、

不登校が増えて以来言い出す保護者があまりにも増えたものだから、こうした逆のスタンスも出来てきた。

時代は何でも行き過ぎるとその逆の揺り返しが来るのが常だから、こうした考えが出て来るのは必然であり、

また「お子様の人権」のもとに何も言えなくなっている今の社会では風穴を開けてくれていいことだ。

よく考えてみろ。公立はともかくとして私設のフリースクールは民間運営だから不登校児が

長期在籍してくれるほど経営が助かるのだ。不登校児を早く学校へ促す訳はないだろうが。

出来るだけ長期化させて「見守り」、長い間授業料を悩める不登校児の親からせしめてのみ経営が成り立つ。

ちょっと前の引きこもりの引き出し業者みたいなもんじゃないか。

 

その逆で「スダチ」ではなく「キズキ」という真逆の不登校児用の塾もある様で。

不登校児ゆえにまともな学歴職歴がないため、不登校を売りにして生活するしかないから

不登校新聞を主宰している石井志昴という人がまたこのキズキに出て来てごちゃごちゃうるせーが、

(この人毎回お馴染み。これしか語れることないからね。人生経験ないから)

代表はこいつじゃなさそうだ。こいつは確かにこれ以外専門分野がないから不登校の話専門で呼ばれるみたいだが、

いかんせん教育学や心理学で不登校研究を専門にやった訳ではなく、大昔の自分の不登校経験の切り売りで生きているだけだから、

もういい年なのに、不登校児の年齢でもないのに、いいおっさんながら子供のメンタルを持ち続けw未だに不登校不登校とわいわい騒いでいる。

そんな石井にとってコロナ禍で不登校が増えたのは、商売繁盛で有難いことだろうが。

 

さて、このキズキという塾のホームページの中身。

キズキ共育塾の木原彩とかいう元不登校女が書いた様だ。

曰く、不登校児に対して一般生徒がやって欲しい対応の三原則。

①「不登校」にとらわれず接して欲しい

②「学校以外にも居場所がある」と伝えてほしい

③「学校へ戻って来て」と言わないでほしい

 

ナイーブすぎる、センシティブすぎる、というより図々しすぎる。

そもそも健常者の子供は、不登校児を遠巻きに見ているだけで、不登校児本人たちが自意識過剰に陥っているほど

関心を持っていない。健常者の子供は毎日学校へ来ている健常者の子供との遊びや受験などに忙しい。

ドラえもんの歌じゃないが、宿題当番、試験にお使い、あんなことこんなこと大変だけ~ど~。という毎日だ。

不登校児が学校へ来たからと言ってそこまで真綿で包む様に接しろというのは

「私は不登校児なんだから甘やかしてよ!」とフリースクールで悪知恵をつけて母親に言い放ち母親を困惑させた

女子生徒よろしく自意識過剰すぎる。

健常児は不登校児をそこまで気にかけ「こう接しよう」とまで努力している時間はないし、不登校児自身が

「私はどう思われているだろう」と考えるほど不登校児に興味がないのだ。

あと、何で理由もなく不登校児にそこまで優しくすることを強要されなきゃいけない?

健常者の子供も十分大変な生活をしているのに。だったら健常児の子供に不登校児の親が金でも払って健常児の子供を雇えばいい。

 

で、このキズキの代表をやっている人が安田祐輔という人。

当然元不登校なのだが、発達障害によるいじめ、転校、一家離散などを経て不登校、20歳で国際基督教大学へ入学したが

卒業後企業戦士を強いられる総合商社に入社して(無理に決まってるだろ、総合商社みたいなイケイケの会社)、鬱病になり退職、という分かりやすいプロフィールを持っていらっしゃるwww

前から書いていた様に、挫折は早いほど立ち直りにくいということですね。

小学校で挫折しなくても中学校で挫折する。あるいは名門高校に入っても大学で挫折する。

大学までエリートの人がいきなり小さなことで刑務所へ行く羽目になったり、大人になってからは本当に子供時代には想像もつかない流転の人生が待っている。おちぶれるのは簡単だが、這い上がるのは難しいということを考えれば、

大人になっておちぶれていくのを見越して、まだ体細胞脳細胞が活発な子供のうちは這い上がる力を蓄えさせるのが長い人生を考えれば当然のことなのは誰でも分かる。

多様性だから学校いらないと言っている人は耳障りの心地いい甘言に流されていい気分になっているだけで先のことを考えられない人。

だからこそ、挫折は早くから経験させない方がいい。出来るだけ普通に無難に生きさせ、回りと同じ人生を送らせ、

自己肯定感を味わわせる、・・・それでも大人になるにつれてその自己肯定感は必ずや失われていくのだから。

こいつの人生なんて案の定である。最初からいじめや一家離散や発達障害など色んな理由をくっつけて

不登校に逃げ込んだ結果、当然「月曜から週末まで朝早く起きて嫌な仕事に行く」「満員電車に耐える」「上司のパワハラに耐える」「言われたノルマ(子供時代には宿題に当たるもの)を期限内にやっていく」「そうしないと叱られる」

と言うのを全部不登校で免除されて来たもんだから、彼は恐らくフリースクールでは「見守り」のもと

「具合が悪かったら帰っていいのよ」「宿題はやれるペースでいいのよ」「嫌なことはしなくていいのよ」と

「それこそ多様性」を吹き込まれた結果、なぜか本人が身の程知らずの商社マンに耐えられると思い込んで入社したところ、

当然「やりたいことだけやっていればよかった」不登校時代、あるいはレジャーランドに近い大学時代と違い過ぎて

今度は不登校時代と違って、無職になれる理由がないと困るもんだから、何とか「鬱病」を作って退社。

鬱病など何とでも言える。「おちこみやすいんです」「眠れないんです」「死にたいんです」「自分は人間失格です」

と言っておけば誰でも鬱病になれる。彼が鬱病を使ったのは障害年金をゲットするためかも知れない。

いずれにしても不登校時代みたいに「多様性だから働かないのも多様性」とは言えなかったわけだ。

そんな屁理屈、大人社会には通用しないからな。

結局そこ。学校行かないのは多様性と言っている今しか見ない不登校擁護者たちは(まあ民間施設経営者は不登校児のおとす

お金が目的で、不登校児とその親に多様性という心地よい言葉を使って自分のフリースクールに引き留め学費をぼったくろうとする)、大人になったら「多様性の時代だから御社に合いません」とは言えなくなるのだ。それはただのわがままだとされる。

だから大人になると精神疾患を作って仕事から逃げるしかない。

逃げるのは得意だろう。小学校から逃げ続けてきた不登校児だもの。

 

不登校児のダメなところは一言で言えば、「頑張った経験がない」「頑張らない」ことだ。

現代は「それでいい」「皆一緒で皆いい」「逃げていい」「頑張らないでいい」というのが美辞麗句となっている。

しかし、社会はそれで衰退する、あるいは崩壊する危険性まである。

私は頑張ることは美徳と思うが、頑張った成果を美徳とは思わない。

と言うのは、頑張って報われる人間は1%にも満たない。

王貞治が「報われない努力は努力とは言えない」と言ったそうで、芦田愛菜がそれを座右の銘としているとか。

だが、王貞治も芦田愛菜も際立った能力の持ち主だ。

さすがにこれは強者の論理なので、私は賛同してはいない、一理あるのは確かだが。

そうではなく、頑張っても報われない中で、無力感、自己否定感、自己嫌悪感、そんなのしか、頑張っても戻ってくるものがない

という中で、頑張るってのが一番重要で、かつ人間の矜持を保つものなのだ。

私は不登校児じゃなく(そんな脆弱な甘ったれた知り合いではなく)、「頑張って」「敗北した」人をたくさん知っている。

それは社会的に見て頑張ったのではなく、傍から見れば何もしていない様に見える人たちが多い。

むしろ、「ダメだ」とレッテルを貼られている人さえいる。

じゃあなぜ彼らが頑張ったと私が分かるのか。

彼らが皆一様に「自分はダメな人間だ」「自分の責任だ」という感情を一人で背負って誰のせいにもしないで

踏みとどまっているからである。

この中には、罪悪感や自己責任の感情から、敢えて社会で罰せられる行為をして、自己処罰をして自分の中の自己嫌悪と社会からの処罰を調和させようとしている気の毒な人もいる。自分で自分を責めているから、自分を認められたり肯定されると辛いのだ。だから他人からもクズと呼ばれたい。だから処罰を食らおうとして生きている。

結局努力したかや頑張ったかは、努力した結果の失敗であっても全責任を自分で背負って自己責任として還元しているかによると思う。当然こうした責任を自分で背負い込む人々は社会に対して「多様性の時代だから」「私みたいな生き方も認めてよ」「私は悪くない」「私は頑張っている」「私は社会にこういう要望がある」とは言えない。それはすべて自分が背負うべきことだと思っているからであり、そうできない自分をひどく卑下し、憎んでいるからだ。

こうした私の知り合いのうちの二人は自殺してしまった。

要するに、不登校児みたいな開き直りなどしない、極めて真面目な人々なのだ。

 

だから当然不登校児は自殺などしない。不登校などやれる「学校へ行きたくない」と言えるメンタル強い人間が、自殺などするだろうか。「学校へ行かない」と主張するのは、「そういう主張しても回りの大人が理解してくれる」という安定感、安心感の表れであり、恐怖感に支配されていないからこそできる主張なのだ。不登校児の自殺するケースが報道されたことがあるだろうか。そんなしおらしい不登校児がいるはずがない。

むしろいじめられながら学校へ行き、自殺する子供がいるくらいなのだ。

本当の苦しみは打ち明けられるものではない。

従って、不登校児の、簡単に打ち明けることのできる苦しみなどは過小評価されていい。

苦しみを打ち明けられないまま自殺する人々の苦しみは、結局「打ち明けられないまま」終わるので、周囲が理解できず、過小評価されがちだ。だが勿論こうした人々の苦しみこそ過大評価すべきだ。不登校児の苦しみは本人がプロパガンダするほど(プロパガンダできるのだからという部分も含めて)過大なものではない。過大な苦しみはそもそも過大過ぎて心の奥底に沈殿し、プロパガンダ出来ないのだ。

上記の「責任を自分に帰する」人々と比べ、翻って不登校児はどうだ。

彼らは自分で頑張らず、まず「不登校児を取り巻く人へのお願いを3つ」などと調子いいことを抜かす。

他人に期待する前に、他人をコントロールする前に、自分で自分をコントロールし、背負え!

無関係な健常者の子供に不登校児自らの個人的な苦しみを背負わせるな!

健常者の子供がお前を不登校にしたんじゃない、お前が誰に頼まれたでもなく強要されたでもなく勝手に不登校になったんだ!

だから不登校の自己責任を「自分」で負え!

将来生きていくのはお前の親じゃないぞ、「自分」本人なんだぞ!

他人をコントロールしてこれとこれをしてくれ、ではなく自分がこれとこれをする、と考えを変えてみろ。

そうでないから商社に勤めたって務まらないで、鬱病という仮病を使って辞めていくのだ。

不登校児が商社なんて務まる訳がないのに、どこまで自己肯定感強いんだよ。無理に決まってんだろ、不登校児風情が。

それもこれも、自分が一線に出て頑張った経験が子供のときになくて、いつも「逃げていいんだよ」「人と比べなくていいんだよ」と甘言を与えられて育ったことによる弊害だろう。

 

自殺してもいいから頑張れ!それくらいの努力をしてみろ!

自分で責任を背負い込み、徹底的な自己否定に陥れ!

逃げてばかりで他人と交わらないまま内的世界で遊んでいるだけの自己肯定なぞ、現実社会に出たら粉砕されるぞ!

外と交わり自分がダメな人間だと自覚することをしないと、一回の自己否定を経験しただけで、

一生外へ出られず逃げたままになるぞ!人生なんて自己否定の連続なんだから、それに慣れるしかないんだよ!

それをやるのが学校社会なのに、甘やかされて「嫌なことは一切やらないでいいよ」と親が誤った教育をしてきたんだろう。

社会も時代も風潮も学校も文科省も。

私の知り合いだって企業戦士でないどころか、無職だったし、更に精神疾患を患っていた。

それでも自分の責任から逃れようとしなかった。

そういう人は潔い。

武士道精神みたいなもんだ。