もう発信するのはやめる気でいた。毎日グーグルニュースで上がってくるものを何となく読み、ユーチューブを見て時々ドライブに行く生活。それでかなり早い老後の人生に入ったつもりだった。
 しかし、それを崩すものがあって、こうして書いている。あるニュースに耐えかねたからだ。今年の4月後半辺りからだろうか。「不登校」関連の記事がグーグルに、ひどいときは5件に1件は不登校ネタが入ってきた。あまりの多さにうんざりしたが、いずれ消えると思っていた。しかし、今でもまだ不登校ネタが繰り返し流れることが、もう本当に嫌になって、エンジニアの人にグーグルからあるキーワードをブロックすることはできるか、と聞いたら、グーグルがランダムに入れてくるので無理だ、と言われた。不登校記事とタイトルから分かるものに関しては、記事自体は読まないことにしたが、それでもタイトルだけでは何の話か分からない場合は読んでしまうので、不登校の色んな話を知った。いや、無理やり知らされた。

不登校の親が頑張って書いているブログ、地方自治体がフリースクールに手を貸す話題、不登校児の数の推移・・・一体何か月不登校ネタが熱いんだ、と思っていた矢先、もう不登校の概念が崩れているのを知った。行政は不登校の親からの反発を恐れて不登校を「多様性」だと極めてポジティブに受け止めている態度を取る。

世間が色んな観点から、不登校の正当性やメリットを押してくるので、私は逆の立場を取ってみたいと思う。

まず、コロナ禍後に不登校児が中学生で20人に1人と激増した、ということだが、今の不登校容認・礼賛ブームの先頭に立っているのは、かつて少数者だった不登校児を持つ親で、コロナ禍で急増した不登校に乗じて、自分の子供は「今となってはこれだけ多くの不登校児がいるのだから不登校は当たり前の流れなのだ」と自分の子供をコロナ禍で起こった不登校の子供といっしょくたにし、不登校児全体の主張ということにして、紛れ込んで来ようとしている保護者たちなのではないか、と、策略的な面を感じざるを得なかった。コロナ禍以降の不登校児と、それ以前にいた不登校児は、本質的に違うにも拘わらず。でも、まあそれも当然で、元から不登校児を抱えて苦労していた親が、いきなり不登校児がコロナによって増えれば、孤独から解放されるわけだから、何かしらのプロパガンダをしたくなるだろう。不登校には「心のケア」が必要だから、という話になってくるのはもうお約束だろうが、まず、コロナ禍後に、突然20人に1人の子供が「心のケアを必要とする状態になった」という話を誰が信じるだろう。パンデミックによって精神疾患の有病率が上がるなんて、しかも「不登校に限って」そうなるなんてあり得ない。世界の児童、青年のうち、約20%が精神的な問題を抱えているとのデータがあるが、これが、令和3年の不登校児が過去最多というのとダイレクトに結びつくと考えるのは単純すぎるとしか思えない。勿論、子供の側からすればコロナ禍を経たことで、健康な子供でも、学校をサボりたくなれば、精神的問題を抱えているふりをすれば大人が納得してくれることになるからありがたいとは言えるかも知れないが。

実は、コロナ禍後に不登校になった子供いる家庭を、3件知っている。彼らの子供は全員治っている。もし、身近に具体例が3件もなかったら、私はこのブログを書いていないだろう。不登校の実例を、私自身が身近に見ていなければ、私の言うことは説得力を失うことになるのだから。私が独身で、そもそも不登校児を含むあらゆる子供と接する機会もない中で、不登校児が3つの知り合いの家庭で偶然発生して、そして全部治っている。しかも3人の不登校児が治った理由は全部同じである。だから、私はこれを書こうと思ったのである。

偶然と言えば偶然だが、彼らの両親は、全員、ブログで「自分の子供の不登校に寄り添う」と書いて発表する様な、自己顕示欲と承認欲求の強い、「意識高い系」の親ではなかった。3件のうち1つの家庭は、両親とも高卒で、普通の会社員とパート主婦だ。他の2件も、夫は地方の、特に知名度の高くない私立大学を出ただけの会社員、妻は高卒で、もう1件も似た様な感じであり、つまり、「児童心理学」だの「教育学」だの不登校全盛時代の現代社会の趨勢だのを全く知らず、関心も持っていなかった。しかし、だからと言って虐待やレグレクトがある様な家庭ではなく、父親は毎日せっせと仕事に行き、特にギャンブルや酒に溺れるでもない平均的なサラリーマンで、子供が大学へ行きたいならば行かせようと考え、好きな道を歩んでほしいと願うごく普通の人たちであったし、逆に子供の成績が冴えなくとも「まあ自分の子供だから仕方ないね」という感じでエリート至上主義でもない。母親は子供の食事を毎日用意し、洗濯をし、掃除をしてやる。父母会だの家庭訪問だのがあればきちんと対応する。本当に、絵に描いた様な中流家庭であった。

上記の通り、コロナ禍の不登校児の急増は、何も突然心のケアの必要な子供が急増したからではない。

単純に、小学校1年生から「学校は毎日行きなさい、それがモラルなのだ」と親や先生に教えられたから、人生経験を何も持たない子供たちはそれに倣って一生懸命通っていた。朝眠くても我慢して起きる。宿題をやっていくノルマをこなす。宿題をさぼったら怒られる。それが普通だと教えられていた子供たちが、3か月もの「強制休校」を命じられ、かつコロナが移るから家にいろ、という新しいルールを突如教えられる。一番外で走り回りたい年代の子供に「国」、そして「教師」「親」が命じたのである。子供たちは最初、「毎日行け」と言われた命令と逆行する命令に戸惑ったはずだ。よほどのことがない限り、親の命令はたいてい合っていると思って従うのがまだ小さい子供だ。

今まで、学校をさぼりたい日もあったが頑張って登校していた。それを、突然「サボるのがモラルだ」と(実は子供にとっては、「サボる」のと「休む」のはそれほど区別はついていなくて、何であれ休めれば嬉しいのである)逆の教えを入れられた。それによって、「学校へ行くのがモラル」というのが間違ってることなんだ、という価値観が長期休校の間に植え付けられてしまった。「学校」はそれほど揺るぎやすく、必ずしも行くべき価値のある存在ではない、と子供たちに誤認識されたのである。さらに「コロナ特例」によって、欠席日数を出席と見做すという法律まで作られた。

今まで朝7時に起きないと怒られるから必死にパンと紅茶だけすすって寝ぼけ眼で学校へ行っていたのが、いきなり朝10時に起きても、昼過ぎに起きてもいいことなり、夜も外に出れず退屈だろうから深夜2時3時までゲームしていてもいいとされ、それは、大人の命令なのだから、子供は生活の乱れやさぼりを大人が正当化してくれたものだと勘違いする。そして、この昼夜逆転も、勉強時間の減少も、子供たちにとっては今までよりはるかに快適な生活であった。気ままな暮らしを覚えてしまったのだ。やりたいことだけやればいい。やりたくないことはやらないでいい。その上「意識の高い大人たち」は、「苦しいことはやらなくていいのよ」と優しくしてくれるのだから、それに乗っからない理由はない。事実、ある県知事がフリースクールを訪問したとき、児童に「ここは楽しい?」と聞くと「勉強しなくていいから楽しい。タブレットで勉強すればいいし」と平然と言う。また、今、「教室で先生に当てられるのがいやで学校へ入れない生徒が中学生で3%にのぼる」というデータも出てきた。果ては「朝起きられないから学校へ行けない」という理由まで。そしてこの朝起きられないという子供の訴えには何某かの「病名」までも与えられた。あるいは、体育の日は着替えが男女一緒だからいや、という子供もいるという。この様な理由で学校へ行かない子供たちに、果たして「心のケア」が必要と言えるだろうか。学校はいやでも「勉強するところ」であり、いやでも「先生に当てられるから「予習で答えられる様にしておく」ことを今まで子供たちは当たり前の様にしてきた。教師が当て、子供が答える。今まで代々行われてきた一般的な授業のやり方だ。そして、当てられて答えられなければ怒られるのは仕方ないことだ。それを、当てられるのがいやで教室へ入れない(入らない、と言った方がいい)子供を、心のケアが必要だから、教室が怖いなら何か対策を練って、「別室登校」に時間と税金を割く、子供の心に寄り添う教育を、というのだろうか。先生に当てられるのがいやだ、そんなのはむしろ極めて健全な発想だ。心のケアが必要であるはずがない。これを、教師が当てて、子供が答えられないからと子供を叱ったら、親が自分のところへ怒鳴り込んで来るのが教師は怖いのだろう。「先生が怒るから不登校になってしまった」と。しかし、当てられて答えられなくて叱られるのは当たり前なのだ。答えられなかったからこそその部分を勉強して、きちんと覚えられるのだ。それをさせて貰えないならば、授業そのものが成立しないと言っても過言ではない。それでも「当てられるのが怖いから教室へ入れない」という子供に「心のケア」を優先して、「当てられて答えられる様に勉強しろ」という当然のことを教えられないのならば、もう本末転倒で、お話にならない。もし仮に保護者がこの件を以て「子供が教室へ入れない」とクレームを言うとするならば、その保護者は、子供に基礎学力をつけさせたくないのはないか。そして、体育の日の、着替えが男女一緒だといやだという程度の「いや」は、今までの子供たちが仮にいやだと思っても、ある程度「我慢」して来た(あるいは何も感じない子供もいたかも知れない)。不快かも知れないが、通常の子供にとっては、少なくとも「心のケア」が必要になるほど深刻なトラウマを残す様な問題ではない。

学校、義務教育とは、「社会に出て最低限苦労しないため」に作り出された制度であり、子供たちが将来困るから「勉強をさせ」「生徒を当て」基礎的勉強を教えるところである。今、不登校を全員悩める子、として「いやなことを一切させない、ストレスをかけない」という指導をして、不登校を擁護する、というよりはもはや不登校の権利をプロパガンダする保護者は、子供の「今の心のケア」しか見ていない様だが、子供が50歳になったときのことまで考えているのか。その時「意識高い」親たちは80代で、もはや50歳の子供のガラス細工のメンタルに「寄り添える」はずもない。8050問題の温床を、今、懸命に土台づくりしている、わが子可愛さに取りつかれている親たちは、わが子を全面保護したいがための「いやなことは一切させない」が将来どういう結果を招くのか、考えたことがあるのか。そもそもあと50年の間、全然傷つかない様に守り抜くなど出来ないだろう。実際、ガラス細工のメンタルの中高年がいたら気持ち悪い。保護者たちは自分の子供時代を思い出してほしい。「いやなことをさせない」と親に言われたら宿題をしなかったはずだ。「勉強しないでいいよ」と親に言われたら喜んでサボったはずだ。先日はどこかの県議が、「うちの子は不登校で・・・」などと自分の子供の不登校をわざわざ開陳するに至った。自分が多様性を認める器の広い新しい思想の持ち主だと主張したいのだろうか。

そして、フリースクールは勉強がないからいい、と言った子供は、大人になったとき、コンビニで「濃縮還元ジュース」の「濃縮還元」を読める大人になるだろうか。お釣りを出すとき繰り上がり、繰り下がりの暗算に困らないでさっと計算できるだろうか。

また、義務教育の利点は、生活に困らない程度の学力を学ばせることだけではない。朝7時に眠くても無理やり親に起こされて学校へ行く、そのために早寝早起きの生活習慣を幼いうちに覚えさせること、宿題をやらないと怒られるから宿題をこなすこと、これらは、全部彼らが会社員になったときに困らないための事前準備なのだ。眠くても会社に何とか我慢して行く、そして課題として出されたノルマを期日までに上司に提出する、こうした社会人として機能するための一つ一つが、「いやなことを無理してやる」という10歳前の反復練習の中で、体得されていくのだ。そもそも子供だけではない、朝起きるのがいやなのはほぼ日本の就労する者のほぼすべてであって、子供だけの特権ではない。それが休校になり、子供たちがいやなことを我慢してやることをやめてしまった(彼らが社会人になったとき、彼らはやりたくありません、ですべて通すのだろうか。そのとき、日本に就労人口は一体何人残るのだろうか)。

そのための不登校急増が、コロナ禍後不登校急増の理由であった。基本的に子供は何でも「さぼりたい」生き物だ。親や教師はそれを見とがめて「こら、さぼっちゃダメ」と怒る。正直、小中学生と大人とのやり取りは、いやなことをさぼろうとする子供と大人との攻防戦に尽きるだろう。それを大人がさぼりを容認し「寄り添う」とすれば、子供にとっては好都合としか言い様がない。それではもう教育が成り立たない。

私の知り合いの上記3組の家庭は、上に書いた通り、コロナ禍が終わり、学校が再開した後不登校になった。しかし、その親たちは、「生活リズムの乱れからの一過性のもの」と捉えることさえせず、特に何も考えないまま、嫌がる小学校5年の子供に怒った父親が仕事へ行く前に(父親だけでも)10回は手を引っ張って学校へ連れて行った。女児は涙を流し、「大勢の人がいる場所が怖い」と言ったという。しかし、父親は担任の先生に引き渡すと、そのまま仕事へ行った。後で本人に「可哀想だと思ったか」と聞くと、「別に可哀想だとは思わなかった」とさらっと言っていた。母親の方はと言えば、父親よりさらに強く、子供を学校から家へ戻って来ても、 泣いても喚いても怒って手を引っ張って連れて行った。学校へ行かない日はフリースクールに行かせた。すると次第に学校へ行く日が多くなり、今では元気いっぱい中学校生活を謳歌しているという。中学は地元の公立だから、小学校からの持ち上がりだと父親は言う。私が「やーい、元不登校」とかいじめられたり笑いものになったり仲間外れとかにならないの?」と聞くと、関心なさげに「あーいじめられているかもね」という程度だ。本来の子供の気質が、そもそも繊細でも何でもなく、不登校だったのをいきなり登校して、いじめられたりからかわれたりしても、気にする性格ではない様だ。結果として、この子の不登校は1年ちょっとで、親が怒って無理に手を引っ張っていくことで治った。つまり、学校へ行くのがモラルだというルーティンが戻っただけだった。「心のケア」なんか全く必要なかった。他の2件も同様で、こういう「見識のない」普通の親ほど、「学校をサボるのは悪いこと」と常識的なことを考えて、物凄く当たり前のことをするので、その2つの家庭の子供も、親が無理やり学校へ行かせて、サボったら怒るうちに、やはり全員が1年ちょっとで普通に学校へ行く様になり、普通の青春を謳歌している。意識高い系の親が「子供の心に寄り添って」いたところ、子供の不登校が5年とか6年に及ぶなどと書いているのと比べると、この、無造作で不見識な親の態度が少なくともコロナ禍を端緒としただけの精神的に問題のない不登校児には、功を奏したと言わざるを得ない。

正直、自分の子供の不登校を、懸命に発信していく母親目線で書いたブログは大量に流れてくるので、「子供が学校へ行こうとすると毎日お腹が痛くなる。最後には自分の方が行かせるのが心配になった」「お母さん、足が動かない、と子供が顔面蒼白で立ち尽くしているのを見て、私は、子供に寄り添おうと決めた」・・・など、色んなコメントを目にする。こうしたたくさんの記事が、コロナ禍で不登校になった私の知り合いと同じケースなのか、それともそのずっと前から不登校の子供のケースなのか、どちらなのかは全部しっかり読んでいる訳ではないのでよく分からない。ただ、上記で書いた様に、これが社会人になって通るだろうか。お腹が痛いから仕事休みます、足が動かないから仕事休みます、果ては朝起きられないので仕事休みます、ただこれは病気なので・・・そんな言い分が。

症状として受け止めるべきだとは思う。ただ、それを正当化して、それで構わないんだ、とまで言うのは偏りすぎではないだろうか。それこそ社会人になったときのことを考えれば。

正直、私が知っているのはコロナをきっかけとした不登校だけだが、その場合は、学校へ行かないモラルを、学校へ行くモラルに切り替えるだけで充分で、ガラスのメンタルを持っているどころか、雑で、屈託ない子供本来の性格の子供たちばかりであった。そもそも「心のケア」という言葉自体が胡散臭いことこの上ないのだ。少なくとも3件の家庭の子供が、1年程度で楽しく学校へ行っているのを鑑みれば。

私はグーグルが流れてくるままに、不登校ネタをしぶしぶ読まされて来た。だが、子供を叱りつけて、手を引っ張ったら不登校が治ったなどという事例は全く報道されていない。私の回りにあっさりそれで治った子供が3人もいるのに。勿論それがマスコミの特徴ではある。不登校が地味な家庭で地味に手を引っ張って無理やり連れて行ったら治ったよ、という話題を誰が拾うだろうか。少し前に中学3年間学校へ行かなかった人が鉄道運転士になれた、という記事が何回も検索に上がってきた。こうした記事があがると、不登校でも頑張れば自分の好きな未来を描ける、と希望と錯覚を与える。当然のことながら、不登校ではなく、正規の学校を経て鉄道運転士になる人の方がすんなりとなれるはずだが、それは勿論報じられない。子供たちはそれを見て、学校へ行かなくともどんな仕事でもできる、と思うかもしれない。ニュースはギャップがある人物像を取り上げるが、それは誰にとっても珍しく興味を持たれるからだ。アインシュタインだか、ニュートンだか忘れたが、小学校を一年で中退したとか、そんな記事が伝記にも出てくる。不登校児は運転士にもなれる、科学者にもなれる、と錯覚を起こさせる様に書かれているのかも知れないが、通常の人間はアインシュタインやニュートンではない。平凡な脳みそを持ち平凡に生きるのだ。物凄く稀なケースを持って来て、「だから君も不登校でも大丈夫だ」と期待を持たせても、そんな科学者と同じ頭脳を持つ子供はまずほとんどいない可能性の方が高いわけだし、鉄道運転士になれたのだって、不登校児としては相当稀なケースだ。単純に、義務教育を出ていた方が、なりたいものになれる可能性がはるかに高い、ということを、メディアが敢えて報じないのだ。そんな報道はありきたりで、読む人がいないからに過ぎない。

もともと、世界の学校制度は宗教施設から始まった。日本ならばお寺で読み書き計算を習う寺子屋、西欧なら教会での学校教育。どれも大体10歳前くらいから集団で同じ年代の子を集めて、読み書き計算を教えている。それは本当に何百年も続いた制度だ。特に日本の識字率が世界的に高いのは、明治5年の学制発布から、戦後の新教育制度へと変遷しつつも、「義務教育」を非常に大事にしたからだ。それを、「多様性」「自由」という一時の聞こえのいい言葉によって、あっさり否定してしまうのだろうか。仮に義務教育制度がそれほど弊害を生むのなら、なぜここまで維持されてきたのかが不思議だとは思わないのだろうか。LGBTQや同性婚の様な多様性を認める社会が来たから、教育に関しても、政府の押し付けた義務教育に頼らない、親が個人で教育の場を見つけ出す、という多様性も認めるべきだというのか。問題が全く違う様な気がする。なぜならば、同性愛は互いの関係の中で幸せな形で完結するが、義務教育を保護者が積極的に否定しようとする弊害は、最終的には、今は想像もつかない形で、いずれ子供たちに跳ね返って来るのだから。

不登校全面否定とは言わない。かつて、いじめられた少年が大人に相談できず、いじめっ子を殺害した事件があった。また、いじめの報復に、同窓会を敢えて呼びかけ、出席者に毒物を飲ませようとした殺人未遂事件もあった。いじめられている子供にまで無理に通わせろ、殺人や自殺を招くのもやむを得ない、などとの暴論を吐くつもりは、全くない。幼少期のいじめは自分の全存在を自己否定してしまうトラウマになる。これは解決しなければならない。しかし、実を言うと、子供たちは大人が思っている以上に仲間から嫌われていることに恥ずかしさを覚えて、どうしても親やf教師には知られたくない。逆にさらりと「いじめが嫌だから学校へ行かない」と言える子供は、さしたるトラウマを背負っていないと言ってもいいだろう。トラウマが深ければ深いほど、それを言語化することで壊れてしまう。それくらいいじめで受ける苦しみの根は深いのだ。だが、昨今、大人と子供の境界があまりなくなってしまっている気がする。そもそもいじめ自体は昔から変わらずあったのに、認知件数が増えているのは、大人に助けを求める子供が増えたからであろう。理由は単純だ。昔の子供は小学生になると、仲間に認められることが最も大切なことになったから、秘密は友人との共有だけに留めた。大人に知られるのはいやだった。しかし、今は親と子供が一体化して、子供はちょっといじめられたら、それを恥と感じてため込む前に親に報告し、学校を休んでしまう。子供の秘密にはしないで、親に何でも報告する。そうすれば、親が自分に都合よく動いてくれると知っていれば、子供にとって親は「使えるやつ」と認識される。

「モンスターペアレント」という言葉が出始めたころは、「そんな親がいるのか」と世間に衝撃を与えた。今はどうなっているだろう。私は本当に日がな暇を持て余して、グーグル検索ばかりしているものだから、暇つぶしでも時間が経つにつれて、頭の中に何となくデータが蓄積されてしまった。事件などのニュース以外に割合を占めるのは、公務員の懲戒処分だ。警察官、都道府県及び市町村職員、教職員という三種類の懲戒処分は、大体ネットニュースになる。警察官の懲戒は、私が暇つぶしにネットを見ているここ十年以上の間、ほとんど変わらない。強盗殺人を働いて逮捕された警察官、女性の前科を知ってそれをネタに強姦しようとした警察官など、誰から見ても悪いレベルのことをした者は勿論懲戒免職。万引き事案は停職1か月、交番で性交した場合は停職3か月・・・などなど色んな事件があるものの、一般市民が見て、特に違和感のあるものはない。これはやったことに対して、懲戒の相場があるらしく、十年以上、概ね処分は一貫している。都道府県及び市町村職員の場合は警察官より少し厳しく感じられる。庁内に喫煙所がなくなったからとたばこを吸いに外の公園に一日に二十分ほど出て吸うのを続けた職員には懲戒免職とはいかないが、何らかの懲戒処分があり、同じく庁内に喫煙所がないため役所内の閉鎖された理髪店で数人で吸っていた職員も軽い懲戒処分を受けた。あるいは「馬鹿野郎!」「何だこの野郎!」だの暴言を数回繰り返した職員が、男性女性ともにいたが、パワハラに当たるとして懲戒処分を受けた・・・等のニュースを見かける。ただ、警察官の懲戒処分より厳しいのは確かだし、職員たちも大変だな、と思いはするがその程度だ。しかし、教職員の懲戒処分の厳しさは常軌を逸している例が散見されるのだ。いや、それ以前に、教職員の場合、何の懲戒処分もない事案でもネットニュースになる。もともと、なぜか警察官より教職員の懲戒処分の方が重い、というのは知っていた。万引き程度だと、警察官が停職一か月程度であるのに比べ、教職員は懲戒免職。万引きを取り締まる警察官の処分より、教職員の処分の方がなぜか重い。勿論、教職員が女子更衣室に忍び込んでブルマーを盗んだとか、女生徒に性行為をしかけた、とか、誰がやっても、誰の目から見ても懲戒免職相当の事件はたくさんある。しかし、時々唖然とするニュースも、教職員に関しては目にする。最近の例ならば、中学の校内放送で君が代を流した中学生がいたので注意した、すると君が代を流した三人うち一人の男子生徒が体調不良を訴え、膝をついてうずくまったので早退させた・・・という話であった。教師は体罰を与えた訳ではない。しかし、それはたちまちネットニュースになり、賛否両論になってしまった。正直、君が代という国歌をかけたことはどうでもいいとして、「ふさわしくない」と教師に指導された生徒が、それだけでうずくまるほどの体調不良を訴え、それを教師のせいにされたら、教師の思想が問題だとかそれ以前に、もう怖くて保護者様の大切なお子様を指導することなど出来ないだろう。小中学校の場合、「児童生徒の体調不良を訴え」はよく聞かれる文言だが、かつてあった神戸児童殺傷少年事件の様に、人間の頭部が校門に置かれたとか、猛暑の夏の運動で熱中症になったとかでの体調不良ならば理解もできるが、教師に叱られたから、指導を受けたから、体調不良では、体調不良は生徒が叱られたときの最強の武器になる。これが今の時代の趨勢だというのならば、それは明らかに度を越している。この少年は、これから叱られる度に体調不良を起こすことだろう。あるいはどこかの小学校の6年生の教室で、教師の持っていたタブレットの画面を20分ほど放置したところそれを見た児童1人が3日後、体調不良を訴え欠席し、あるいは「学校へ行きたくない」と訴える児童がいた。タブレットの中身に、児童の努力の成果が見られないというネガティブな趣旨の記載や、保護者とのやり取りに不適切な表現があった。このためこの教師は担任を外された・・・校長は謝罪、そしてネットニュース。勿論教師が故意に不安を煽るタブレットの画面を見せつけたということはないだろう。いやな言葉が書かれたタブレットを見てしまったら、欠席するほどの体調不良を起こし(しかも今年の6月2日にタブレットを見てから3日後の5日に体調不良で欠席したというのだから、果たして本当にタブレットのせいか、甚だ疑問だ)、不登校の原因とされるのだ。教員は一切の生徒への叱責を禁じられ、タブレットの画面にまで気を張り詰めなくてはならず、ほとんどがんじがらめだ。部活動でのいじめで4年間不登校になった件では、県教委が謝罪していた。私だったら部活動をやめていただろう、とそのとき思った。ただ、いきさつが分からないので何とも言えない。しかし、前述の通り、普通の中学生がいじめられることを隠していた時代とは状況が変わったのだろう。いじめられて不登校になるのは恥ずかしい、嫌われていることを知られてしまうことが恥ずかしい、鬱病を発症しているというが、鬱病になっていると親や大人にばれるのが恥ずかしい、大人に弱みを見せたくない、小中学生の子供の心はそんなものなのかと思っていたが、以前と違い、やはり、現代では、子供同士の繋がりよりも、親子の縦の繋がりの方がはるかに太く、今の子供は、親と親友の様に何でも話し合えるのだろうと思った。私は自分が中学1年生のとき、女子だけの部活で、同学年の生徒から私ともう1人の親友がつるし上げみたいのを食ったのを思い出した。私は「面倒くさいな」とだけ思いながら親友と一緒に家へ帰った。というのも私がつるし上げられた理由が、皆に嫌われていたその親友とつるんでいたからというものだったからだ。私自身はその親友から危害を加えられていないので、仲良くしていたら、部員の気に障ったとのことだった。私はそれから少し経って部活動をやめた。しかし、この鬱病になったという生徒は、就職したら実社会ではどうなるのだろう。最適な環境を親が用意するしかないだろう。親はいつまでフォローを続けられるのか。そして、生徒が大きくなってからは、親は一体どこに怒りを向ければいいのだろう。教育委員会は90度のお辞儀をして謝っていた。また、この件では市長も謝罪した。最初は学校側が、いじめの事実を認めなかったといういきさつがあったからだ。そのうちいじめの概念は広がって行くだろう。例えば三人の仲良しグループの女子がいたとする。それがある日些細なケンカで、二対一に分かれてしまう。一人の側になった生徒は学校をサボり、「いじめられている」と言い出す。保護者は早速学校へ直訴する。「本当に反省しているのか!」と詰め寄る。この保護者は思いが及ぶだろうか。仮に三人グループの均衡が逆に働き、「二対一」の二人の側に自分の子供が入ってしまったらという可能性を。そうなったら、「反省しているのか!」と言ったその口で、逆に一人になってしまった側の親に「うちの子がお子さんをいじめて申し訳ありませんでした」と言わなければならないのだ。この程度のケースで親に訴えたり、また親が介入することは、仲良しグループを自分の力で元に戻そう、と模索する方法を、子供自身が考える機会を失わせることになる。親に打ち明けるのは嫌だから、自分の大切にしているアクセサリーを二人にあげて仲直りできないかな、とか、仲たがいした子が掃除や給食当番のとき、変わってあげて仲良くなれないかな、とかそういうことを考えさせること、これも義務教育での練習が社会で役立つのに、親が全部解決してしまったら子供は仲たがいのときどうすればいいかを学べない。だから最近の子供は「些細なことでの体調不良」や「不登校」が多くなったのだろう。「子供を持ったら周囲に頭を下げて歩くことも多いだろうから、あまり偉そうなことは言えない」と、ある年配の女性が言っていた。昭和世代に子育てをした人だ。自分の子供が誰かに殴られるかも知れないが、逆に殴ることもあるかも知れない。自分の子供と一緒に万引きした子供の友達を叱ったら、実は万引きグループのリーダーが自分の子供だと後で判明するかも知れない。自宅のガラス戸に野球ボールを投げ込んで割ってしまった近所の子供を叱ったら、今度は自分の子供が、隣の家のガラスを、野球ボールで壊すかも知れない。そんな感じで、子供はお互い悪さをしたりされたりだから、他人の子供も大目に見ないと、自分の子供が悪さをしたときに被害者の子の親に顔が立たない・・・こうした考えを持つ親はもう影を潜めたのか、学校関係者が謝罪をする事案は、普通から見ると理解しにくい事柄が多すぎる。上に挙げたケースは、いじめの問題以外、教育委員会は出てこないが、懲戒処分になっていない話題までネットに挙げられるという点では、都道府県及び市町村職員に与えられる懲戒よりもずっと世間の目が厳しい。正直、教職員に関するネットニュースは、揚げ足取りにさえ見えるときがある。警察官や都道府県庁及び市町村職員と同じく、懲戒処分が出たときだけネットにあげればいいのではないか、と奇妙な感じを覚える。

いささか話が脱線した。別のネットニュースに「どうせ無理だよね」が口癖のフリースクールの生徒、という文言があった。そのとき、大学時代の授業を思い出した。私は教員免許も持っていなければ教壇にも立ったことのない、単なる教育学科卒でしかない。ついでに言えば、精神保健福祉士の専門課程も卒業しながら資格を取っていない。だから偉そうなことは言えないのだが、私が大学生だった当時、「初発型非行」の意義について習ったことがある。初発型非行とは、文字通り、非行の入り口となる些細な逸脱行為で、具体的には「飲酒、喫煙、万引き、占有離脱物横領(主に自転車盗)等」を指す。さて、こんな違法行為に、意義があるのだろうか。しかし、最近、私が学生時代習ったことが、まだ生きていることを知った。小学校へ上がるまで、親が最も近い存在であった子供たちは、小学校1年生になったときから、同年の級友との交友が始まる。このとき、まず、同性との健全な友情を培っていくことが、将来異性との健全な交際、結婚へと発展するのである。この、最初期の「同性との友情」を築くために必要不可欠なことは、「同性との秘密の共有」である。親に隠れて、親友と2人だけで、あるいは3人だけで、こっそり飲酒や喫煙、万引きをしたこと。「親には絶対内緒な」と約束し、そこから、親とだけのべったり付き合いから離れて、子供は秘密を共有した親友を一番信頼する様になる。これが初発型非行の意義、と言われている。勿論、何も非行でなくともよいのだ。秘密の共有が友情を育むのだから、「女の子同士の秘密の交換日記で好きな男の子への思いをお互い教えあう」でも、「男の子が3人で畑の中に秘密基地を作っていろいろ持ち込んで、大人に見つからない様に過ごす」と言った体験でも、十分「秘密の共有」となりえる。ただ、初発型非行の場合は、秘密の「違法性」や「見つかったら絶対怒られる」という部分が、連帯意識を一層深めるという点で優れている、というだけである。

ところが、フリースクールで、数人の不登校児、そして多くの大人のスタッフとだけ過ごした子供たちは、この「秘密の共有」から同年の友人との強い結束ある友情を、極めて築きづらい、という難点がある。義務教育の意義は、上記の様に、基本の学力をつけ、社会人になるためのルールを教えるだけではなく、この「同年の級友との深い友情」を築くための機能も果たしているのだが、フリースクールで、「どうせ無理だよね」という感情を身に着けてしまった子供たちが、こうした積極的な友情を育む力を持っているとはなかなか想像しがたい。もしそうならば、もっとたくさんの「同年の同性の級友」がいる正規の学校へ行くだろうから。フリースクールに子供を通わせる母親たちは、当然子供が自己を肯定できる様に心を砕くだろう。「正規の学校がすべてではない」「あなたはかけがえのないたった一人のあなた」「多様性の時代」・・・一体どれが本当に彼らの心に響くだろうか。今の時代は、上記の様に、親と子が親友になり、同年代の仲間作りを求めない子供が増えているのかも知れないが、それでも、それはそんなに多くはないだろう。小中学校の年頃は、本来は、親からの評価以上に同年の学友からの評価を気にするのだ。だから、上記の様に、学友からいじめられていることが自分を否定する様で恥ずかしくて情けなくて言えず、突然の殺人事件や自殺にまでなったりするのだ。親からだけ評価されればいいのならば、いじめられていることでも何でもかんでも親に報告できるはずであろうに、なかなかそうできないのは、同年のクラスメートに否定されている自分が辛く、その小さな教室の世界が、子供たちにとってすべてであるからだ。そして小中学生の行動半径は、一部の都心の私立学校へ通う子供たちを除いては、極めて小さい。電車になどめったに乗らない。徒歩か、自転車で行ける自分の通学区周辺が、彼らの全世界だと考えていいだろう。そうすれば、当然フリースクールへ通う子供は、「隣の〇〇君は普通の小学校へ通っている。前の家の〇〇ちゃんも。三軒向こうの〇〇さんも。自分だけ同じところへ行けていない」と感じる。これを大人がいかに大人の多様性の時代の論理で説明しても、彼らが認めて貰いたいのは親でもフリースクールのスタッフでもなく、自分の全世界である通学区の同年輩なのであるから、大人のまやかしの励ましなど見破ってしまう。隣の家の子と同じクラスなのに、自分だけがフリースクールなのが、どれだけ恥ずかしいか。この時点で不登校児は、自分にネガティブなレッテルを貼ってしまうことになるのだ。もっとも、前述の如く、親や教師よりも級友に肯定されたい、という価値観がもう子供たちから完全消滅してしまったというのならば、私の言うことは、もはや何の意味もないのだが。

人生は、足し算ではなく引き算である。小学校1年生として4月にスタートするとき、彼らは全員100点の持ち点を持っている。人生の過程で、それは少しずつ時間をかけて減っていく。小学校で勉強ができていた子が、中学校でできなくなり、目指す高校へ入れなくなることもあれば、いい高校へ入っても大学で第一志望を逃すこともある。一流大学まで頑張れても就職がうまく行かないこともある。一流企業で頑張ろうとしても、突然のリストラやトラブル、あるいは予期せない自分の病気などで、人生がうまく行かなくなることがある。家庭を築くと、今度は家庭不和があったり、子供の教育がうまく行かないと悩んだり、それ以前に子供が欲しいのに子供ができなかったり、マンションのローンが払えなくなったり、どんどん自分の理想像とはかけ離れた人生に巻き込まれていく。というより、人生のラストまでずっと勝ち組だった人は、稀有な人だからこそ「上級国民」と呼ばれ、叩かれたり、賞賛されたり、非常に目立つのである。大半の人はそこに至れないで、「中くらい」の人生を送ることになる。つまり最初頑張ってもだんだんうまく行かないことが増えてくるのだから、最初の小中学生の時期に、敢えて本人たちに疎外感を抱かせる不登校を正当化して、本人たちが「落伍者」だ、と感じ取る様な方向へ持っていく必要はないのだ。最初はできるだけ普通の、持ち点が100点だと本人に認識させたままの人生のスタートを切らせる方が、長期的に見て、ずっといい方向に向かうはずだ。

人生早期にネガティブなことが起こるのは、人生が熟してから起きるよりよくない結果を生む、という傾向は不登校問題に限らず、色んなジャンルで見られることである。例えば統合失調症には20代前半に発症しやすい「破瓜型」と、中年期に発症する「妄想型」があるが、「破瓜型」は、「妄想型」よりはるかに治りが悪い。私が見た事例で、破瓜型の人が治癒した例はなかった。別の例でもいい。10代で少年院に入った少年と、30代で初めて刑務所に入った人を比べると、30代で初めて刑務所に入った人の方が再犯率がはるかに少ない。少年院を仮に17歳で退院したからと言って、「すぐ高校へ編入手続きをして頑張って勉強しよう」と考える少年はあまりいないだろう。少年院に入った年齢が14,15歳だとしたら、その時点で、自分の存在を否定している。「どうせ無理だよね」が口癖の不登校児の様に。逆に30代で初めて刑務所に入った人は、少なくとも小中学校までの自分のことは、肯定的に見られると言ってもいいだろう。「自分は子供の頃はワルじゃなかったよな、いつからこんな人生になっちゃったんだろう」という感じで。そして、その時期を思い出せることが立ち直りや自信に繋がるのだ。勿論、すべてにおいて、例外というものはあるが。

不登校児のために、通信制高校が作られている。しかし、就職の場で敬遠される傾向があるという。「どうせ元不登校でしょ」と。職業科出身の高校卒の生徒の方がずっと就職実績がいい。偏差値が高くないというだけで、工業科卒の生徒は自動車修理に長けている子もいるし、商業科卒の子は経理で重宝されるかも知れない。何より就職担当者が安心するのは、「メンタルが健康だ」という部分だ。それがない以上いくら高学歴の社員が来ても、会社は困るからだ。通信制高校卒で芸能人になった人もいる。私の回りにいる不登校から通信制高校を出た子は、一人は司法書士、一人は中小企業診断士になった。通信制高校で認められるには資格を取るとか、そうでなければ芸能界に入るなど特別な努力が必要であることが多いというハンデを考えれば、普通に高校を出るだけで採用される方がどれだけ楽か知れない。

更にもう1つ、今雨後の筍の如く増えているフリースクールのことも書きたい。私は以前朝日新聞社の「AERA」で「引きこもり」について書いたことがある。引きこもりが問題視されてから、中高年の引きこもりの親たちが高齢化して困っていることに付け込んだ業者がはびこる様になった。彼らは引き出し業者と呼ばれ(引きこもっている人を部屋の外へ「引き出す」からだ)。親たちから数百万円を貰って、引きこもり当事者の部屋に機動隊の様に押し入り、引き出す。そして、銭湯の掃除や草むしりなど、労働させることで引きこもりを治すと謳っている。しかし、これらの業者は精神科医でも心理学者でもない。ヤンキー上がりのお兄ちゃんが「根性論」で、引きこもりは甘えているだけだから掃除をさせればよくなる、そして結構儲かる、などと言ってこの方法で稼ぎまくって、高級外車に乗っていたり、もともと蕎麦屋や探偵をやっていた引きこもりに関しては全く門外漢のグループが引き出し業者として親から高額の金銭を貰ってどこかの原っぱで草むしりをさせ放置する、など、ちょっと危ない業者が「引きこもりが金になる」と知ってから林立し、私はその業者から高額の金銭を取られた親から相談を受けている弁護士さんに取材をしたこともあった。今、不登校がこれだけ「盛り上がって」いれば、当然「不登校は儲かる」という名のもとに、NPO法人が林立し、教育について全く理解しないスタッフが不登校児の親の回りにまとわりついてくることは想像に難くない。そして、はっきり言えることは、既存の正規の学校に関しては、この心配だけは全くない。多様化の時代は全然構わないが、実際問題として、長年文部科学省で繰り返し改善されてきた学習指導要領や、児童心理学、発達心理学、教育社会学などなどなど、教育学を4年の間学んで、正規の教員採用試験に合格した教師の質が、にわか作りのフリースクールのスタッフと同等になる日が来るとは到底思えない。そっくり同じレベルにたどり着くとしても、それまでに一体何十年かかるだろうか。事実、1993年に「こどもの権利条約」によって登校拒否を肯定的に捉えるとした文科省は、試行錯誤の末、2003年にそれを修正している。その後また、2017年「学校以外の学びの場を広める」と施策を出している。文科省も、保護者の総モンスターペアレント化や、多様性を認める時代背景から、方針転換を繰り返し、試行錯誤するしかないのだろう。増え続ける不登校児のために、行政がフリースクールを設立する、ということまで起こっているが、果たして試行錯誤しながら懸命に「正規の学校」を作って来た行政が、そこまで不登校を容認し、保護者におもねり、寄り添う必然性はあるのだろうか。なぜ子供の方を変える前に、社会の仕組みを変えようとするのか。そうするうちに、正規の学校は滅び、行政は全国の学校すべてをフリースクールにするのだろうか。そうなると、もはや、フリースクールが正規の学校になってしまい、またそこで不登校児が発生する、というループに過ぎなくなるのだが。「毎日通いたくなる学校を目指す」とインタビューに答える校長もいたが、そんなことをするより、通いたくなくとも、学校は毎日通うのが義務なんだからいやでも果たさなければならないと子供に教えるのが普通だろう。そもそも、「通いたくなる学校」を目指しても、子供はそもそも学校になんて通いたくはないものだ。面倒だけれど仕方ないから早起きしてこつこつ出かけていくのだ。雨の日も風の日も。雨の日なんか特にいやだ。そうか、だったら通わないでいい、とまで言い出したら、もう子供の要求は際限なくなるだろう。学校はいつまで子供や保護者に日和り続けるのか。寄り添うのと甘やかすのは全く別物だ、となぜ言わないのか。義務教育は国民の三大義務だと、中学の教科書に書いてある通りのことをなぜ言わないのか。教育、納税、勤労。納税をごまかし、脱税すると逮捕されるし、勤労に関しては、障害や病気やその他やむを得ない事情もなく、単なる無職だと、白い目で見られることが多いのが実情だ。義務教育を否定するならば納税も否定するべきなのだろうか。脱税を犯罪とするならば、不登校も非行、問題行動の括りに入れてよいことになる。学校へ行くのが普通なのだから、不登校は非行、問題行動と括っていい。

少なくとも、学校はいらない、とまでいう意見が跋扈するのは異常だ。なぜ義務教育だけが、ここまで必要か必要でないか、ぶれてしまっているのか。小中学生の年齢から、いやならば義務は果たさないでいい、と教えたら、当然反社会的な人格になるだろう。そして、大人になって、一切の義務を果たせない人間になるのではないか。自由や多様化を訴えるならば、その前に最低限の義務を果たすべきだ。それがいやならば外国へ行って自由に暮らせばいい。日本では、義務教育が一応国民の三大義務の一つなのだから。少年犯罪の厳罰化と反比例して、なぜか不登校への世論は、全面肯定に向かっている。少年犯罪だけでなく、法律全体は厳罰化へと動いているというのに。警察署に用もないのに居座って動かなかった男を不退去罪で逮捕した、などというニュースも報じられる中、何年も何年も不登校で何も処罰されず、むしろ被害者として寄り添われるのは楽でいいな、とさえ思う。

そんな中、予想外のニュースが出てきたのは面白かった。現在の少子化のペースよりずっと早いペースで、「教員志望者」が定員割れを起こし、どこも教師確保に必死で、教員志望の学生にかなりすり寄った条件を提示して、何とかして人員を求めていると報じられている。理由は表向き部活動などの顧問をさせられるなどの超過勤務がハードで、人が集まらないということになっているが、恐らくここ10年以上、暇に任せてグーグル検索で上がってくるニュースを見た限りでは、過重労働だけが理由ではない気がする。というか、自分が教育学科卒で、教育実習を受けるか悩んだこともあったので分かるが、自分が今もし大学4年生で、「校内放送で君が代を流したことを注意したら注意された生徒が一人体調不良を起こして早退し、ネットニュースになった」「自分がついうっかり放置したブレットの画面が児童を不安にさせたと担任を外され、ネットニュースになった」云々の話がたくさん出回っていたら、教師など絶対選ばない。こうしたニュースが多くなって久しいが、教員志望の学生の無言の抵抗、いや、抵抗でさえない、些細な叱責や教師側の予期しない過失によって、簡単に「体調不良」「不登校」に繋がる脆弱さを持つ子供だらけになった今、それを守るべくモンスターと化した保護者には関わらない、というのが彼らの出した結論である気がする。いつ、何がきっかけで、地雷を踏んでしまうか分からないからだ。そうなると困るのは、実はそのモンスターたる保護者たちなのだ。教師が一人もいなくなったら、自分の子供をどこで学ばせるのか?普通の学校へ通っている児童生徒にとっては、不登校や多様化をプロパガンダする保護者はいい迷惑である。教師に指導を受けたいのに、教師がモンスターペアレントを嫌って消えていく。そうすると、普通の児童生徒の親たちの怒りの矛先は、当然モンスターペアレントや、不登校礼賛をし、学校という「権力」を否定してきた親たちに降りかかるのだ。

何でも昭和を肯定しすぎと言われたら仕方ないが、正直、今は教師と親がもはや対立的に振る舞っているとしか思えない。「うちの子が〇〇なんですが、先生どうしたらいいでしょうか」と聞くよりは、「先生のせいでうちの子が〇〇なんじゃないでしょうか」という感じで付き合っている。子供のために、教師と親が協力していく、という姿勢が崩れてからもうどのくらい経つだろうか。今の親たちは、もはや教師などに相談しない、何しろ精神科医、臨床心理士、フリースクールのスタッフ、相談する人はたくさんいるし、ネットを通じて常に不登校に関する情報は入ってくる。教師のことなど、もはや専門職と見做していない。こんな仕事に応募しようとは、大学生も思わないだろう。

時代は何でも揺り返しだ。世間の考えが右に寄りすぎれば左へ修正、左へ寄りすぎれば右へ修正、政治でも経済でも全部そうなって来た。教員志望者減少で、実際の小中学校の現場が困るという事態によって、もうちょっとニュートラルな社会に戻って欲しい。教師も行政ももう、何でもかんでも謝罪謝罪に終始して、親の教育方針に逆らえない態度をやめ、プライドを持った方がいい。

16歳の頃読んだ大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」という初期作品を思い出す。このおかしなタイトルの由来は、第二次世界大戦下で、農民が感化院の少年に向かって、「いいか、お前のような奴は、子供の時分に絞めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」という言葉を吐くところから来ている。もう一度戦争が起きろ、などとは口が裂けても言うつもりはない。ただ、今の子供たちが、過酷な時代が来たとき、生き延びられるとは思えない。過酷な状況に直面したときに、自分ひとりでも何とか生き延びられる様にと、義務教育というものが作られたというのに。

最初から繰り返し、不登校児たちの50年後を見て欲しい、と書いてきたが、一つの例を挙げよう。

今は不登校ユーチューバーを名乗る少年ゆたぼんが頑張っているが、彼のアンチは「16歳になったら、小学校も中学校も知らない無職のユーチューバーでしかない」と嘲笑っている。彼がこの先どうやっていくのかは、いかんせん未来のことなので、私には何とも言えない。

ただ、過去のことは知っている。まさに私が10代の日々を過ごした1980年代に、彗星の様に現れ、一瞬で消えた兄弟のことだ。彼らの名前を高野生、高野大、という。彼らは私より少し上で、小中学校を意識的に拒んで、卒業していなかった。それは、彼の父親の方針であった様だ。父親の高野雅夫は、終戦直後、満州からの引き揚げ中に家族とはぐれ、教育を受ける機会を与えられなかった。21歳で夜間中学へ入り、文字を学んだ。こうした悲惨な育ちから、「大日本帝国」に対する強い怒りを持っていたのだろうか、彼は息子二人に義務教育を受けさせなかったのである。私が彼らを最初に目にしたのは、かつて存在した「朝日ジャーナル」という雑誌上で、筑紫哲也との対談だったと記憶している。バブル期だった。彼らは当時流行っていた「新人類」の一群として登場する。私は熟読した。彼らは何をしてくれるのだろう。それから彼らは「十代が作る雑誌」を作ろうと、マガジンハウスに企画を売り込みに行き、「ヒストリーズラン」を発行する。私は楽しみだった。自分も編集部へ行って何か手伝えないだろうか、私はワクワクした・・・当時かなり大きく宣伝はされたし、実際小さな商店街の書店の雑誌コーナーに、複数冊、「週刊文春」や「週刊新潮」などと混じって置かれていたのだから、大したものだった。私は買うつもりで立ち読みした・・・そして、やめた。中身が想像以上に稚拙すぎたからである。今は全く覚えていないが、多分、下手な漫画やイラスト、そして、「学校は嫌だ、行かない」「大人は嫌いだ」「俺たちで社会を作りたい」という様な、投書だったのか、小説だったのか、とにかく高校生の貧しいお小遣いをこれに使うのはいやだ、と思うくらい内容が子供じみていたのを思い出す。尾崎豊の亜流の様だった。その時ふっと心配になったことがあった。彼ら、高野兄弟は「十代」という切り札がなくなったとき、一体どんな人生を送っているのだろうかと。中卒、小卒でさえない彼らには、結局、「芸術」での生き残り方しか許されていない。作家、画家、ミュージシャン、映画監督、脚本家・・・そうした仕事には類まれな才能が必要で、サラリーマンになるよりはるかに難しい。にも拘わらず、履歴書の学歴の欄が全く空白の彼らはそのサラリーマンにさえ恐らく採用されない可能性が高いだろう。だとしたら、何を仕事にして、生活していくのだろう・・・自由に生きるにしても、義務教育はさすがに不可欠ではないか。心からそう思ったことを、今でも覚えている。果たして、現在、高野兄弟の名前を検索しても、兄の高野生が北朝鮮へ行ったときの体験記を一冊出している以外、取り立てて活動している様子はない。今は何をしているのだろう、と時々思い出す。犯罪で新聞の紙面を飾ることがないのは救いだが、明るいニュースの方面にも、名前が出てくることはない。生計はどうやって立てているのだろう。ユタボンにしても、普通の学歴を持った子供と比べて、よほどの才能がないと、これから何十年の人生を生きていくのは難しい。高野兄弟は、今、同年代の60歳前後の周囲の人と子供の頃の思い出話を話すとき、給食の話も、修学旅行の話も、運動会や遠足の話もできないことをどんな風に感じているだろう。同じ歳の人間たちと何一つ同じ体験を共有できなかった自分を、それでも、果たして見限ることなく肯定できているだろうか。そしてそれはそのまま、50年後のユタボンにも言えることなのだ。高野雅夫は、明らかに戦争被害者だった。そして、夜間中学に行くしかなかった。それが、今、不登校の子供を受け入れる場として注目を集めているという。高野雅夫自身と比べて、何と贅沢なことだろう。実際通える正規の学校があるにも拘わらず、自分からハンデをつけに行くという不登校児の親たちは。

さて、なぜ無名作家の私がいきなり不登校問題にしゃしゃり出てきてがみがみ言っているのか。それは、かつてAERAで書いた様に、私が「大人の学習障害」を患っていたらしい、と知ったからだ。勉強が出来るから気にならないでやって来られたのに、社会で身体を使って動く仕事をしてみると、まるで使い物にならず、周囲に迷惑をかけ続けてしまう。無駄な給料を払わせている店にも、私のミスをフォローしている同僚の人たちにも申し訳なくて仕方ない。上に書いたことだが、必ず大人になって、想定外の自分の欠点が顔を出す。そして大人になるにつれてメンタルは弱くなる。打たれ弱くなる。加えて、仕事に必要な知識などを覚える記憶力や気力も子供のときよりぐっと下がる。義務教育6歳から15歳の9年間は、40歳から49歳までの9年間よりずっと濃いし、6歳からの9年間を失う損害の方が、40歳からの9年間を失う損害より桁外れに大きい。つまり、義務教育が必要だと後で考え直して30歳や40歳から、いや20歳からでも学ぶのは難しいのだ。人はいつからでも学べる、というのは嘘ではないが、その厳しさは尋常ではない。私に関して言えば、小説家なんぞは、何歳からでもやれる。でも、誰であれ、義務教育は、その時期に終えておかなければ、決して取り戻せないのだ。

私がAERAで書いた最後の記事は、仕事が出来ずいやになって様々な仕事を途中で夜逃げ同然にふらっと辞め、引きこもりみたいに暮らしている、という部分で終わっている。お前は自分が引きこもりもどきのくせに、その子供版の不登校ばかり非難する、と言われるかも知れない。まあ確かに形から見れば、不登校は引きこもりと同じかも知れない。ただ、問題の焦点は全く違う。引きこもりの問題は、主題が経済問題だからだ。高齢の親が年金やわずかな労働で、引きこもりのまま中高年になってしまった子供を養う。7040問題から始まり、8050問題、そして今や9060問題という言葉まで作られてしまった。年老いた親はお金も尽き、身体ももう力がない、残していく子供をどうしたらいいか、というのが引きこもり問題の核だ。だから逆に、同じ引きこもりでも、40歳まで働いていて心身ともに健康だけれど、宝くじで10億円当たったから引きこもります、友達は100人いるので、SNSだけやってその他はテレビ見ています、などという場合は、それが社会問題にはならない。つまり、引きこもりには、別に問題にならない引きこもりも存在し、問題になるのは、精神障害や知的障害を患った引きこもりや、生活困窮になっている引きこもりなどが主な対象であるということである。それに対して不登校問題は、経済問題ではなく、学校へ行こうとしない子供たち全員に満遍なく降りかかってくる問題である。「この不登校は問題のない不登校」で、「こっちは問題のある不登校」、などとは分けることができない。それは義務教育が必須であるためと、それに適した年齢が限られているためだ。40代の人が、5年で引きこもりをやめたとき、引きこもっていた時間は取り戻せるかも知れない。しかし、不登校をやめたとき、不登校児は行かなかった小中学校の時間を取り戻すことは出来ない。それと、前述したこととダブるが、引きこもりが大人になってからの躓きであるのと違い、不登校は人生初期段階からの躓きである分、本人の自己否定が、ベースの部分から破壊されている場合が多い、という点もある。「自分なんかダメなんだ、普通と違うんだ」という感覚が、より早い段階でしみ込んでいる。だから、不登校からの引きこもりで来てしまった人は、大人になって社会人を経験した後引きこもった人より当然治りにくいだろう。その意味も含めて、不登校は引きこもりの中でも、最も重いタイプの人を生み出しうる、ということだ。

また、私自身、だんだん自分の人生がおちぶれてきたとき、単純に、教育があってよかったなあ、と思った。正直、一番言いたいのはそこだ。歳とともになし崩し的にすべての能力がおちて来るのは自明なのだから、力があった年頃に、勉強したり、大学へ行ったり、就職したり、小説書いたりしておいて、本当によかった、と。私も最初100点からスタートして、今はもう10点も残っているか分からないが。大人になって、ひどい目に遭ってプライドを失ったこともあった。だけれど、プライドを失ったのが中学生のときだったとしたら、私はそのときから、立ち上がれなかったと思う。そのときの方が、心が柔らかい分、深く傷ついてしまうから。だからプライドを早くから放棄しないためにも、不登校を止めて学校へ行って欲しい。それでもし義務教育きちんと受けました、というプライドがあったところで、心配しなくても、その後に、どんどんどんどんおちぶれていくから。多様性という言葉に、あるいは自己正当化ばかりしている自分のママに甘えないで欲しい。何でも自分を肯定してくれるママは、本当に、50年後にはもう頼れなくなっているのだから。

かつて、松本人志と中居正広が主演した「伝説の教師」という学園コメディのドラマがあった。2000年ごろだったと思う。「心のケア」という言葉が盛んに言われ出した時期だった。私はこの言葉がむず痒くなり、不快だった。このドラマでは敢えて「生徒たちの心のケアを!」と声高に叫ぶ(悪役的存在の)教師が存在する。今の教育の現状を予言していたかの様に、とにかく些細なことで「子供たちの心のケアを!」と叫び、スクールカウンセラーが出てくる。それに対して松本人志が「その前に僕の財布のケアはどうなるの?」と自分の貧乏さを訴えて、やんわり「心のケア」を連呼する事なかれ主義の教師を皮肉るのだ。

最後にもう1回。「子供の心のケア」に関する様々な本を読む前に「手を引っ張って𠮟りつけて、泣いて怖い怖いと言っても学校へ連れていき、そのまま担任へ引き継いでみて」下さい。そして付きっ切りで悩まないで、そのまま放置。「この子の心が折れてしまう」とか考えないで放置。教育委員会のせいにしないで放置。子供の皮膚に赤チンを塗っておくと、大人より早く子供の皮膚はきれいになるんですよ。私は教育評論家でも何でもないですが、少なくとも知り合いのコロナ禍が原因の不登校児はそんな昭和的解決で3人もけろっと1年ちょっとで学校へ行く様になりましたよ。たとえ私の知り合いという狭い世界の話であるにしても、確率的に言えば100%、これで不登校が治っているんだから、いくら非科学的だ、古臭い、と言っても、試してみる価値はあるんじゃないでしょうか。昭和時代ののび太君なんて、今の児童生徒から比べると最優等生です。毎回0点を取ってママに叱られ、「説教が一時間で終わった」とそのまま野球に出かけ、ジャイアンに殴られてドラえも~ん、といつも泣きついて助けて貰って、けろりとして翌日またジャイアンやスネ夫と野球をしている。ここまで鈍感になれとは言いませんが、子供というのは「絹の座布団に座らせておく、1ミリたりとも傷をつけてはならない絶対無謬の美しい無傷の宝石」ではありません。そこら中に傷を作って、それで死ぬまでやって行くのです。今、不登校を多様化の最先端だ、子供の権利だとせっせと発信していらっしゃるお母様方、50年後、あなたは80ですよ。その時も、自分の子供は絶対無謬なのに、それを社会が傷つけた、と言う気力は残っていますか?今は、教育委員会が頭を下げてくれますが、50年後は、誰も「あなたのお子さんを傷つけて申し訳ありませんでした」なんて言ってくれないのですよ。というか、50年後は「お子さん」ではなく、「おじさん」「おばさん」ですから。

近視眼的な多様性重視ばかりで、困るのは、お母様方自身なんです。

私は子供がいない。だから、「不登校児の親の苦しみは分からないだろう」と言われたらそれには反論はできない。でもね、子供ってのは、とにかく隙を見つけては仮病を使っても学校をサボりたいものなんです。それだけは、私も昔、子供だったから、知っているんです。大人が真に受けすぎちゃうと、子供の方も調子に乗っちゃうってこともね。