こんにちは皆様。
福岡は今日も寒いです。
毎朝、ベビーカーでバス停まで通っていましたが、
ここ2か月は歩いて通っています。
3年前「この脳では歩けませんよ・おそらく一生寝たきりです」
とお医者さんに言われていたのに、不思議です。
本当に「脳」とは何なのでしょう?
「普通」と言われる事が「ほぼ全て出来ない」
と言われていたから こそ、
「歩く」「食べる」「笑う」という
一つ一つの動作が出来る事に
心から「うれしいなぁ・・ありがたいなぁ」
と感じます。
「出来て当然の決めつけ」が無い故の幸せです
そして、
全ての出来事は、視点の持ち方によって
「幸せ」にでも「不幸せ」にでも感じられるんだと
気づかされる今日この頃です。
昔、神経科の主治医にこんな事を言ったことがありまして、
「歩けないような、自分の意志もないような、
そんな子を治療して何の意味があるんですか?!」
というニュアンスの内容でした。
勿論、世界中には様々な子がいて、
歩けない、喋れない、それ以上に、私の想像を
超えるような状態の方もいるかもしれません。
その方々には拒絶されるような言葉を
発してしまったんですが、
当時の私には、息子の状況は
受け入れがたいものでした。
しかしながら、3年過ぎた今は、当時の考えが
「間違っていた」と分かります。
喋れなくとも、歩けなくとも、自分の意志がなかろうとも
何ができなくても、全く関係ないのです。
「ただそこに存在してくれているだけでいい」
そう今は思うようになりました
どうして心境の変化が起こったのかは
分かりませんが、日々息子と暮らす中で、
芽生えていったものでもあるし、
多くの色んなお子さんや、家族や、
保育士さんなど、色んな出会いが
自然と変化を促してくれたのは間違いありません
ただ、脳に障害を負ったことは、
心臓に難病を抱える子にとっては
困ったもので
何故なら、障害がある子は、
仮に心臓移植が必要になっても、
その適用から外されてしまうためです。
命の選別を行われるわけです。
親にとっては歩けなかろうと、何であろうと
純粋に「生きてほしい」と心から願い、望みます。
けれども、それは叶わないわけです。
勿論、「移植出来れば絶対に生きられる」のではないですが、
その選択肢すら与えられません。
「生きる失格」のような烙印を押された気に
なりますし、それはどうしてもやるせないです。
(ノ_・。)
人間、誰しも皆、遅かれ早かれ、生きていれば
体に何かが起こります。
それは、病気かもしれないし、事故かもしれないし。
加齢によるものかもしれないし。
しかし、「自分だけは大丈夫だ」という、なんの根拠もない
ものを皆抱えているように思います。
だから、障害を持つ人を、病気を患う人を
自分には起こりえない「他人事」に感じるのではないかと。
誰だって、ふとしたタイミングで、思いもよらぬことで
身体的な何かを抱えるかもしれないのに です。
今は障害や病気がある子、人は、すれ違う多くの人に
「何か違う、変なの」と見られる事があるかもしれません。
でも、いずれは皆「あぁ、何も自分と変わらない、
病を抱える人と自分は同じだった」
と気づく時が来るのだと思います。
世の中がそういった事を感じられるようになれば
ひょっとすると「障害のありなしに関わらず、移植適用」
の道が開けるかもしれません。
(それよりも、最新医療がもっと進んでくれる事を願いますが)
また、病気や障害を抱えることは、同時に「疎外感」も抱えますが、
それはいずれは消えていくものです。
(というか、再発したり、消えたりを繰り返すような・・・)
最近それに気がついて、私は随分と楽になりました。
そして、息子が可愛くて仕方がない毎日であります。
今は辛くて、シンドイ何かを抱えている人がいたとしても、
それはいずれ悩みではなくなる日が来るかもしれません
振り返ったら「あの時は辛かったけど、今はもう違う」
と♪(*^-^*)
長くなったので今日はこのあたりでー(*'ω'*)