自分らしい絵と損なわずに出すこと | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

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神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

自己イメージは不要…というのは、OK。

自分ってこういうヤツだよな、という観念の元で物事を判断していく…という感覚は薄くなってきて、その時感じたこと思うことを軸にして選択していくっていうのが、自然になってきている。



なんだけど。


絵の話になると、かなり様相が変わってくるな…と。



迷ってる…というのではないけど、もやっとしてる感じ。


損なわずに出したい、ってのをハッキリと意識して以来、それがずっと続いてる。


…じゃなくて。


その感覚が下敷きにあって、そこから「損なわずに」というのが出てきた。



一点ずつ、すごく集中して描いている。

すごいテキトーみたいな絵でも、ラクガキでも、一緒。

だけど…なんか、まだ、余力っていうか余裕っていうか…あまったところを残したままでやってる感覚がある。


そう思う一方では、逆に力入りすぎてんじゃないのかな…と感じることも。

力入りすぎて、無駄なところに滞りができてて、うまく循環してない感じ。




自分らしい絵…というのを、私は、求めてない。
どういう絵が自分らしいのか…っていうのは、今、「こういうのはそうかな」っていう感覚はあるけど。
それを打ち出すとか、そんな気はまったく、ない。

無意識に自動操縦で描いてると、なんか「この感じが自分らしいのかな」というところに収まってるだけで、そうしようとしてるわけではない。

むしろ、もっと違うところに行ってくれた方が意外で面白いのに…と思う。


今の絵柄は高校時代にはすでに固まっていたようなものなので…器としては、自分の原点に近いところにあるものだ、とは思う。

けれど、それだけ染みついた型だとも言えるし。


自分らしさの追求…っていうのは、私の求めてるところと、少しズレている。

私がしたいことは、「損なわずに出す」ことであって、自分らしいなにかを出すことではない。

損なわずに出すことができたら、そこに出現したものが「自分らしい」ものになっていく…のかな。





損なわずに出す、っていうことと、「己の心血を注ぐ」っていうこと…。

それは、性質が違うことのように今は感じていて。


自分の感情や思考を絵に入れるのはNGというのは、カミサマ絵になってからずっと在ることなんだけども。

それは、自分という人間の感情は「不純物」となるから、という意味。



ただ、単なる「導管」になるだけでは…それはちょっと、不十分で。

導管だと、自分のパイプの径以上の値は通せない。

そもそも、その段階で、かなりのエネルギー量が落ちることになるし。




もっとも、自分の径の範囲内のエネルギーですらも、大半落とさないと具現化できてない状態で何を言うか…というレベルではあるんだけどもねえ…。




特にどういう解消法があるわけじゃないので、ひとまず、そういう感覚が今強いということだけ記録。



さて。
洗濯物干して出かけるか~。



【追記】
この件について、転換でき得る「キーになること」はこれかな…というのを、今、すでに持っている。

視点…心がけ…姿勢…なんか、そういう、「絵以外のところ」にあるポイント。

それはおそらく、ここまでの私の人生観にはなかった種類の感性。


幸いなのは、それを手探りで発掘していくのではなく、灯火が道の先に見えていることだな~。

配置は完璧…(^_^;)