おはようございます。

 


 

4/1はうちのステーションに看護師さん1名、セラピストさん1名を新たに迎えました。系列病院からの異動という形です。

2人とも20代前半から中盤。若さがまぶしい!

私は隠居生活?に突入したわけですが、4/1は難病の利用者様とのお別れの日にもなりました。





 

この利用者さまとは10か月の関わり。

進行性の難病で気管切開や胃ろうはしないとの意向があった方です。

それでも進行速度の速さから、受け入れの段階と症状が合わず、どうしても医療が後手後手になりがちです。本人さん、ご家族が悩んでいるうちにどんどん進みます。

こちら地区は神経内科医がかなり不足していることもあって総合病院との連携の難しさをまた感じた事例でした。

 

約1年前、同じ病気の方が急変し、亡くなりました。

 

訪問看護師1年目の秋にも同じような場面がありましたが、

自分は未熟で場慣れしていません。


あの時一秒を争って駆け付けるためアクセルを踏んだこと、

全速力でお宅へ駆け込み、目の当たりにした血の気が失せた利用者さんのお顔、

そこから数秒で胸骨圧迫を始めた私を見た奥さんと娘さんが怯え切った表情で後ずさり、2人抱き合っていたこと

胸骨圧迫を行った感触や疲労感、救急搬送時に恥ずかしいことに足ががくがくしていた感覚、

救急車や病院の中で「私が殺したー!私が!私が!!!ああーーー!」という奥さんの叫び声…

などが今もなお、鮮明に脳裏に残っています。


 

今でもこんなですから、自分としても当時はかなり精神的にダメージがあったと思います。

それから間もなくしてこの利用者さんの相談が入りました。

 

ステーション再編中だったことや、おそらく私に対しての配慮もあり(どのみちメインで入るのは私とKさんだし)、この方を責任をもって受けられるのか?というテーマで何度かカンファレンスがありました。


結果、まずリハビリの介入から始まりました。


事業所の車が自宅に停まることや、看護師が訪問することに抵抗感があった方でしたが、

呼吸苦の出現にて在宅酸素が導入されたときより看護師の訪問も開始となりました。

入浴が大変になってきたためセラピストと看護師で入浴介助を行っていた時期もありました。

 

その後、呼吸が弱くなりCO2ナルコーシスと思われる症状が出てきたとき、

私たちは昨年のあの方を思い出しました。

どう選択してくかは自由にしても、急変とか家族さんに「こんなはずじゃなかった」という思いを抱いてほしくない…


今回はリスク軽減のために早い時期から他事業所のステーションさんにも介入していただいていたので

総合病院に連携していただいたり

私が訪問中に意識レベルが落ちたため本人、奥さんに私ができる限りの病状説明を行って

「マスク式の人工呼吸器は使いたい」と希望をお聞きし搬送しました。

 

この数年、急変し助けられなかった難病患者さんが何人もいらっしゃいました。

私は連携が甘かった、タイミングが遅かったと悔いてきたので

今回は初めて『助けることができた』ことに安堵しました。

 

 

搬送後はNPPVというマスク式の人工呼吸器を装着し退院されました。

利用者さんは「あのまま逝ってしまったほうがよかった」という思いもあったようです。

揺れ動く気持ちはありましたが、このエピソードが本人や家族の意思決定の足掛かりとなりました。

 

家族に迷惑をかけたくない本人さんと

生きていてくれたら…と願う家族さん。

 

奥さんはとてもやさしく、夫のあとについてきた控えめな方でした。本人が望む死の選択を「だめよ」とも言えなかったし「いいよ」と決断することも難しかったんです。そうだと思います。だって、簡単に決められることじゃない。


娘さんたちも決められなかった。でも本人さんの意思は変わらなかった。

それぞれに長電話させていただいたり、羽陽曲折ありましたが…話し合いを重ねて「お父さんの意思を尊重しよう」ということになりました。

 

そのあとは疼痛緩和のため麻薬を内服されていたのが

PCAポンプに切り替わって機器の操作、留置針の管理など医療度が高くなっていきました。

寝たきり状態であり保清の支援など行いながらこれらの医療機器を管理していました。

医療処置が増えたことで、うちのステーションからの訪問は私が主となっていました。


結局シフトも回らなくて、『うちでは私しかできない処置を私だけで完結させる』という日々が続きました。訪問入浴時の機器の移動や皮下点滴の管理などです。それは構わないのですが、1年後のことを考えるともっと見てもらえるとよかったなと思います。

 

そんなことでこの利用者さん宅へダントツ訪問してきた私は

おこがましい話ですが、利用者さん、奥さんと信頼関係ができてきたなぁと感じるようになりました。

 

PCAポンプ導入のための入院のとき、病院まで付き添って欲しい、よくわかっている人に来て欲しいと本人さんより訴えがありました。

難しいことを伝えたとき、とても悲しそうなお顔をされたのが印象的で。

「あらっ?!この方こんなお顔されるの?」とちょっと驚いてしまった。


追及はしませんでしたし、勘違いかもしれませんが、おそらく『私』に来て欲しいという思いがあったように感じます。算定の関係上、訪問看護では難しいサービスで結局叶えてあげられず、申し訳なかったです。(自分で事業を起こしたら対応できるように実費サービスを定義したい…)

 

初めは迷惑をかけたくない、とずっと我慢してきた方だったのですが、先月には自身で不安が強くなってきたと仰るようになりました。しんどいときには「towaさん…そばにいてくれよー。落ち着くまでいてくれよー」と思いを表出できるようになっていたんですね。


声が聞き取りにくいためNPPVのマスクを外し耳を澄ませていると上記訴えておられ

「わ!私を名前で呼んでる!」とびっくりしました。とても、しっかりした方でみんなの名前の認識はもちろんあるとは思っていましたが、名前で呼ばれたことがなかったので…

「今日薬をおくれよー」など私達に思いを訴えられるようになってきた、というのは互いの距離感が縮まったことと、それだけ自身が追い詰められていたこと、2つの要因があったとも言えます。

 

それでも基本的にはできないことについて説明した場合も怒ったりせず、甘えん坊な訴えだけで、聞き分けがよく穏やかな方でした。

奥さんにはやんちゃを言われていたようなのですが、それも私からみると穏やかだったように思います。


奥さんは介護される中でとっても落ち着いて対応できるようになっていきました。

女性は強いですね…一歩後ろをついていくタイプだったのに、優しい方で奥さんにお会いできるのが私の仕事中の癒しでもありました。

 


疼痛コントロールは麻薬を点滴に変更後もいまひとつで、比較的展開早く麻薬投与量が増えました。

それに伴い呼吸抑制も進みました。

バイタルが変わらなくても自分の直感的に「あっ…なんか状態が悪く感じる…」という日も出てきました。


3月末のある日、Kさんと清拭に入った時、受け答えはできるけれど下顎呼吸(一般的に無くなる前に出現しやすい呼吸)のような呼吸をされていました。

本人さんもいつものように側臥位も長時間とれなくて。

私は「Kさん…」と顎の呼吸を見て!というジェスチャーと目配せで知らせて、負担がかからないよう手早くケアを済ませました。

妻には呼吸が弱くなってきていることを玄関先で伝え、各関係機関に連携。


その2日後に「おしっこがすごく少なくてずっと寝ている」と妻から憔悴しきったコールがあり、事務所にいたKさんが対応してくれ、他の方の訪問を終えて駆けつけようとしていた私にKさんからの報告も入りました。

呼吸も機械でなんとか維持できており、意識レベルが落ちてきている。「towaです。わかりますか?」と声掛けするとうんうん、と頷かれはしますが…酸素飽和度、血圧共に不安定…。食事、水分摂取が困難にもなっており、状態をみてクリニックさんへ連携し、妻に「あと数日かもしれない…」とお話しました。

妻は、涙をこぼされ「そんなに悪いの…早すぎる」と話されました。


その翌日はやや意識レベルは改善し、数日頑張りました。私は呼び出しも合わせて連日訪問し、状態が落ちていくのを見守っていました。

日曜日の夜は私が看取りかなと覚悟も持って眠りも浅い夜となりましたが、コールなく過ぎてゆきました。

月曜日は他事業所訪看さんの対応日でクリニックも臨時往診を予定していたので、状態がかなり悪いことを連携。


結局。

月曜日に訪看さんが入った時、既に呼吸が止まっていました。呼吸器ついているから分かりづらいだろうなと思っていたのですが、奥さんが分からないうちに逝かれたようでした。


往診も予定していたのですぐに介入していただき、お昼前だったので私達のステーションは関わった職員みんなでお看取りの場に駆けつけることができました。


お看取りのタイミングってその人が選ばれるのだろうな、と感じることが多々ありますが今回もまさしくでした。

週末に娘さんたちもずっとそばにいてくれ、臨終はみんなが集まれるタイミングを選ばれたのかなぁ…と思わずにはいられません。


私と他ステーションでメインで関わってくださった看護師さん2人でエンゼルケアをして、お元気な頃に活動していたスコップ三味線の衣装を身に着けていただきました。


去年の春、さくら祭りで三味線を披露してからは身につけていなかった衣装。娘さん、お孫さんもバンドをつけてくれたりと涙あり笑顔ありのお看取りとなりました。


亡くなってから間もなく、今年もさくら祭りが開催されました。




私はお祭りなことをすっかり忘れていたのですが、たまたま長男の不登校親の会がまつり会場の近くで。


集まりに参加しようと車を走らせていると桜並木やたくさんの人々。

去年はこの場所でたくさんのお客さんを楽しませていたであろう利用者さんを思い、しんどかったね、奥さんにたくさん甘えられて意向を叶えてもらえてよかったね、よく頑張りましたね…と、思いを巡らせしんみりした出来事でした。



いのちとは。


看護とは。



関われば関わるほどに分からなくなる。

奥が深く、一言では言い表せない。


私も訪問看護5年目。

在宅でのケースでかなり予後予測の精度が上がってきました。自分が実際に経過を見てきた利用者さんは概ね予測通りです。

人の命が尽きていく様子を何度も目の当たりにして感じる直感と観察によるアセスメントがあります。


でも結局のところは私はその様を見ていることしかできない。

ゲームみたいに「ヒール」とか「キュア」でもできたらいいのになとか馬鹿なことを考えることもあるんですが、所詮何もできない。ただの無力な人です。


延命治療ってやみくもにすべきではなく

きちんと選択できる機会の提供や

その人の人生がよかったなと思えるようなお手伝いをすること。


人が亡くなるまでいろんな苦労もあるのでその苦労を分かち合いねぎらうこと。

苦痛を可能な限り緩和すること。

一筋の希望だったり、安心してもらえる存在。


看護師としてできることはこれくらいだろうか?まだできることはあるか。


学びながら思いを深め

これからも誰かの力になれたら

それが私の喜びかな…。


そしてこの1年は自分の成長だけでなく

周りの成長にももう少し関わることができたらいいのかなと思っています。