ずいぶん長く間が空いてしまいました。飲み会が立て込んでいたり、いろいろでした。

 コンピレーション・アルバムの能書きも半分くらいで中断していましたが、今日から再開します。

 アイドル&オリジネーターズの7曲目から9曲目までは、竹内まりやの作品です。

 竹内まりやは、自らもアイドルとしてデビューしましたが、山下達郎と結婚してからは、マイペースの活動で、自作の曲を歌うことはあっても、アルバムの発表頻度も、コンサートも数的にはかなり減ってしまいました。

 アイドル時代は大学生だったこともあり、いかにもカレッジライフを楽しむ爽やかな学生というイメージで、作者も安井かずみ・加藤和彦や松本隆・林哲司など、王道のアイドルソングライターが担当していました。

         

         

 この時期の曲はウェストコースト風のアメリカン・ポップスという感じで、シングル盤のジャケットもかなり力が入っています。「ドリーム・オブ・ユー」などは、ちょっとコワいオネエサンという感じですが、これもこの時代の雰囲気をよく表しています。

 シングルはかなりヒットしていて、特に「不思議なピーチパイ」は3位の大ヒットでした。

 アルバムも当時全盛だったシティ・ポップ全開で、今ではいずれもシティ・ポップの代表的名盤とされています。

 当時竹内まりやが所属したRCAは、大貫妙子をはじめとして、吉田美奈子、EPOなどシティ・ポップの代表的女性シンガーが集まっていましたが、竹内まりやも重要な一角を占めています。

 特に3枚目のアルバム「Love Songs」(1980)は、シングル「セプテンバー」、「不思議なピーチパイ」を収録していたこともあり、アルバム・チャートで1位を獲得する大ヒットとなりました。

 このアルバムのA面1曲目の「フライ・アウェイ」はAORのヒット・メーカー キャロル・ベイヤー・セイガーとピーター・アレンが手がけており、後にピーター・アレンがセルフカバーしたバージョンはアメリカでかなりのヒットになりました。

 「フライ・アウェイ」についてアメリカ版のウィキペディアでは、キャロル・ベイヤー・セイガーとデヴィッド・フォスターが竹内まりやのために書いた曲だとされており、同じ項目でピーター・アレンのバージョンがカバーバージョンとされていますが、当時聴いていたラジオでの紹介では、ピーター・アレンが竹内まりやのために書き下ろした曲だと言っていました。竹内まりやのアルバムのクレジットでも作者はキャロル・ベイヤー・セイガーとピーター・アレンとなっていますが、おかしなことに、この曲が収録されたピーター・アレンのアルバム「バイ・コースタル」(1980)のクレジットではキャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレン、デヴィッド・フォスター3名の連名になっています。まりやバージョンとピーター・アレンバージョンでは曲調も少し違っているので、何か権利上の問題があるのかもしれません。 

 3枚目のヒットを受けて、4枚目のアルバム「Miss M」(1980)では、A面全曲をロサンゼルスで録音し、ソングライターもデビッド・フォスター、ジェイ・グレイドン、ピーター・アレン、ロジャー・ニコルス、アラン・オデイなど、AOR系の強力なアーティストが名を連ねています。演奏もジェフ・ポーカロ、スティーブ・ルカサー、デヴィッド・ハンゲイトなどTOTOのメンバーが担当しており、レコード会社の並々ならぬ力の入れようを感じさせます。

   

   

 ところが、シングル盤の売れ行きが好調でルックス的にも抜群だったため、レコード会社としてはアイドル的な売り方も一方で進めていたようで、まりやはTV出演などに振り回される日常にかなり悩んでいたようです。

 元々ソングライティングなどでアーティスト志向が強かったのに加えて、特に「Miss M」の海外録音の経験などからかなりのギャップを感じていたのかもしれません。

 アイドルが精神的に不安定になった時に必ず出現するのがイヤラシイおじさんです。

 「Miss M」に収録された「Every Night」と「Morning Glory」を書いた山下達郎は、同時期にまりやがアン・ルイスに提供した「リンダ」の編曲を手がけていましたが、アーティスト活動についての相談にも乗っていたようで、このあたりから二人の仲は急速に近づいていったようです。

 アイドルに近づくイヤラシイおじさんにはいくつかのタイプがありますが、典型的なのは浅田美代子に手を出した吉田T郎や石野真子を落としたN渕剛のようにちょっと結婚はするもののすぐにポイしてしまうタイプや父親や兄のように世話を焼いた末に結局責任をとらされるタイプです。まりやと達郎の場合は後者でしょう。南沙織とS山紀信もこのタイプです。ユーミンも最初はこのタイプに属するかと思っていたら、カミサンの才能が上回ってしまったので、結局髪結いの亭主のようになってしまう悲惨なオジサンもいます。

 山下達郎はまりやのRCAでの最後のアルバム「ポートレート」(1981)では全面的に制作に関わっており、まりやとしては達郎の職人的な熱心さに惹かれていたということですが、もう一つ達郎の容姿からして、誘惑の多い芸能界では虫のつきにくい比較的安全パイだったことも元カレをふって達郎の元に走った動機だと思います。

 この時期のRCAを販売していたレコード会社RVCにはいろいろ問題があったようで、まりやはストレスから歌手活動を中断することになりますし、達郎も大貫妙子、吉田美奈子、EPOなども、皆他社に移籍してしまいます。

(つづく)