御成街道、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)No1843 | 房総ENJOY-LIFE、

御成街道、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)No1843

No1843

御成街道は
船橋御殿から東金御殿迄の10里15町
(約37㌔)
道幅3間(約5、5㍍)のほぼ一直線の道路で

慶長18年(1613年)徳川家康が東金へ鷹狩りを第一の目的に

佐倉藩主土井利勝に命じて造らせた街道です!

今では途中、2箇所、四街道市の自衛隊下志津駐屯地と八街市沖では分断されていますが

線で繋ぐと当時、真っ直ぐな道であった事がわかります!


家康公の命令を受けた土井利勝は、沿線96ヶ村の名主を召集して

村事に工事区間を分担されて昼夜兼行で造ったので

別名『一夜街道』とか『提灯街道』と呼ばれたそうですが

実際に完成までは1ヶ月程の月日を要したとの事でした!(^^)

街道沿いには長屋門が残り当時の様子が偲ばれます!


千葉市若葉区御殿町迄来ると御茶屋御殿跡と言うのがあります!

地名の言われは紛れもなく御殿があったから
そう名付けられたのでしょうが

この御殿とは船橋と東金、そしてここ若葉区の三ケ所に造られたとの事で

江戸から東金までは3日を要した事がわかります!

(船橋御殿跡にある東照宮!)

船橋御殿跡は今や住宅地となり小さな東照宮が遺っているだけで

東金御殿跡地も東金高校と本漸寺の間に石碑があるだけとなっています!

(東金御殿跡に建つ案内板!)

処が若葉区御殿町に遺る御茶屋御殿跡は
良く旧態を止めています!


寛文11年(1671年)にこの御茶屋御殿は取り払われたそうですが

五代将軍綱吉が出した『生類哀れみの令』が
大きく関係したと言われています!

今にすれば億と言う金額を超える建物だったろうに

たった58年間で取り払われるとはもったいない気がします!

当然、鷹狩りも禁止となりました!


御茶屋御殿は一辺約110㍍の正方形で
周囲に幅約5㍍の薬研堀の空堀と、高さ約2、5㍍の土塁をめぐらし

その内側に枡形土塁が構築されていました!

これではまるでお城のようですね!

(空堀跡!)

(土塁跡!)


内部の遺構についてはこの資料でしかわかりませんが

発掘調査により主殿と思われる基壇部分や
巨大な掘立柱建物跡群や井戸跡のほか

17世紀中頃の陶器などの遺物もあったと言う事でした!

(井戸跡!)
(御茶屋御殿南門跡!)

そして入口の南門が千葉市若葉区上泉町の
寶泉寺に移築してあるというのです!


これが400年も前に造られた門なのですね!

柱は円柱で正面の梁に空想の動物、象2頭の彫刻、屋根は切妻造り

肘木(ひじき)木鼻等の装飾がしてあり
朱塗り(赤門)の跡が残っている!…という解説がありました!



そして北門は千葉市若葉区金親町の金光院に移築されたそうです!

(御茶屋御殿北門跡!)



金光院にある御茶屋御殿の北門ですが
だいぶ傷んでいる所もありましたがペンキの塗り替えで腐蝕を抑えてありました!

この金光院ですが、慶長年間に家康公がこの寺に滞泊した関係で

江戸時代の什宝や古文書が数多く遺っており

中でも市重要文化財の金剛胎蔵の両界曼陀羅

正応2年2月在銘の板碑、家康使用の衣服等が残っているそうです!


小話を一つ!

この金親町の隣に更科町どいう所がありますが 
この金光院に家康公が来られた時の食事に
蕎麦を出されたそうです!

その蕎麦の美味しさに

家康公は
『信州更科で食べた蕎麦と同じだ!』…と
言われたそうで

地名が更科町となったのは家康公が名付けたと言われています!

また、御成街道沿いの地名は家康公に関わる
地名が多いのです!

東金市求名(ぐみょう)や習志野市実籾(みもみ)などが地名として残っています!

その地名の由来を調べてみると面白い話が残っています!


朝晩だいぶ寒くなりました!

御茶屋御殿の紅葉もいい感じになっていました!(^_^)/

お付き合い誠にありがとうございました!
m(_ _)m