稲村城跡(千葉県館山市稲)NO1510 | 房総ENJOY-LIFE、

稲村城跡(千葉県館山市稲)NO1510

NO1510
里見氏の城と言えば館山市にあるお城と旧三芳村の滝田城だけかと思ってました!

今回、館山市稲に
稲村城と言う戦国時代初期に造られた城跡があると知って行ってみました!

何処にあるのかと調べてみると?

なんと!

外房黒潮ラインとグリーンラインが交わる稲の交差点からよく見える山の上にありました!

稲村城は室町時代の15世紀後半から天分3年
(1534年)に
里見家の内紛によって里見義豊が滅ぼされるまでの戦国前期の居城だと言われています!

ここは安房国を一望出来る位置にあり
里見氏による安房支配の為の拠点でしたが

内紛を収めた分家の里見義堯が本城を
滝田、宮本方面に移すとこの城は使用されなくなったと言うのです!
その為、戦国時代前期の城の姿が今も残された貴重な遺跡と評価が高いのだそうです!

入口は岩を削って通した切り通しが続き
途中から山の峰を通って本丸へと繋がっていました!

東西500㍍南北500㍍の丘陵地帯山頂に広い主郭跡があり

土塁跡、三ケ所の堀切、北側と西側は急斜面の要害になっています!

そして東側と南側は複雑に腰曲輪を重ねるなど数多くの遺腰の跡がありました!
また、北の滝川は外堀の役割をもち、東、西、南を廻る丘陵は外郭の役割をはたし

東西南北1.5キロにわたる大規模な範囲の城で
安房国の統治をなした壮大な城であったと思われます!
そんな稲村城跡を麓から、切通しを抜け竹林となった道を
主郭跡を目指して歩いてみました!
そして虎口の看板を越え坂を登るとそこから館山湾が一望出来ました!

見下すと下を内房線が走り遠くには鋸南町の山々も確認出来ました!

見晴らしのいい所にあったのですね!
主郭があったと思われる南側に祠がひとつありました!

さて、天分の乱とは?

天分3年(1533年)7月、
里見氏のパートナーになって来た正木通綱が
稲村城跡に呼びつけられ
里見義豊によって殺害されました!

同時に叔父の里見実堯(さねたか)も殺害される事件が起きました!

よって、内戦状態となり8月には北条氏の支援を受けた実堯の子義堯(よしたか)の軍と義豊軍により

鋸南町妙本寺をぶたいにしての戦いが起こり
この方面の戦いは義堯方が勝利しました!

義豊は最後に残った滝田城(旧三芳村)に立て籠もりましたが

9月には危うくなってしまい
義豊は安房の国を追われ滝田城は落城!

10月には安房の国は義堯の手に落ちました!

上総に逃れた義豊は翌年体勢をととのえ反撃、4月の始め頃、上総より安房へ攻めて来ました!


天分4年(1534年)4月6日、義豊と義堯がお互い大将としての直接対決が行われ、
これが有名な『犬掛の合戦』です!

結局、義豊が討ち敗れこの内乱は義堯の勝利で終りました!

本家里見義豊は滅ぼされ分家の里見義堯の時代となって行ったのですね!

身内同士での戦いとは、まさしく戦国時代だったのですね!

お付き合い誠にありがとうございました!
m(_ _)m