加納久宜公(一宮城趾)長生郡一宮町No1291 | 房総ENJOY-LIFE、

加納久宜公(一宮城趾)長生郡一宮町No1291

No.1291
千葉県長生郡一宮町の城山公園に行って来ました、

歴史のある場所へは1度は寄って見たいと言う気持ちで

寄ってみたのですが、思いも寄らぬ事がありました!


城跡にある振武館、剣道の道場のようです


加納公墓地と言う案内板があるので行ってみました!

そこからは一宮町の全景が見渡せました!

さすがに江戸時代の武将は見晴らしのいい場所に城を造るものです!

そして、加納久宜の墓の前に来て
私は驚いてしまいました!

なんと!!(◎-◎;)

この加納久宜とは私の故郷柳川藩の血をひく人物だったのです

思わぬ所で故郷の名が出る度に

私は千葉県と福岡県柳川市とは随分と関連があるんだと思ってしまいました!

故郷、柳河藩が東京湾防衛の為に上総湊の浜に陣地を構えたりして‼

加納久宜公とは筑後、柳河藩立花豊前守種善の実弟
種道の三男と聞いて驚いてしまいました!

幕末の上総一宮藩主、

加納久宜は明治維新を迎えた明治2年、他藩に先んじ版籍奉還の申請をして

一宮藩知事となり以後、盛岡師範、新潟学校長を歴任後
司法界に転じ大審院検事を努める

明治17年、子爵貴族院議院となり鹿児島県知事となり

その期間中、農水産、道路港湾、教育体育、医療商工業等県政に尽瘁

6年7ヶ月の間、1日の欠勤もなく精励し

しかも当時、10万円を越える自費を提供し全国模範県となし、

その功績は誠に偉大であったと墓標に書かれていました

明治23年鹿児島県知事の後は

東京で帝国農会会長、日本体育会会長、

貴族院議院を3期努めて国政に関与

また、日本競馬会創立に尽力、日本の農政の父と仰がれ

同、45年2月、地元一宮町民の熱望により一宮町町長に就任

その任期中、特に農業畜産の振興
海水浴場創設と植林、青年会等各種団体の育成

一宮女学校開設と多数の功績を遺しました!

大正6年辞職、

大分県別府で静養中、逝去

享年72歳、東京都谷中の加納家墓地に葬られるが

一宮町町民の厚い要請で分骨を納めこの地に墓を建立されたそうです!

大正8年、従2位動二等に叙される!

私は故郷の人物が遠く離れた千葉県一宮でこれ程、慕いされたのかと思うと

嬉しくなって来ました!

もうひとつ驚いたのがこの加納久宜氏とは現、副総理、麻生太郎氏の曾祖父だと言う事でした!(◎-◎;)

麻生太郎氏は福岡県飯塚市が地元選挙区です!

処で私は今まで何を遺して来たのかと

チョット落ち込んでしまいましたが…!


『あんたはただの呑んべですよ!』…が
妻の談でした!(◎-◎;)

その言葉に、なんと!私は幸せなことか…!と思いました
(--、)ヾ(^^ )

お付き合い誠にありがとうございました!
m(__)m