旧大多喜街道 2 (茗荷沢下)長生郡長南町茗荷沢NO 935 | 房総ENJOY-LIFE、

旧大多喜街道 2 (茗荷沢下)長生郡長南町茗荷沢NO 935

NO 935
今回は旧大多喜街道を歩いてみようと
県道147号線を走り長柄町を超え長南町の役場前まで来ると

手前の交差点に旧房総街道の名残を残す
道標がありました!


高さ約150㎝幅約27㎝奥行約30㎝の題目塔で

安永6年(1771年)酉歳1月に御園権兵衛と言う石工が刻んだものだそうです

なんと!今から244年も前の物なんですね!
(-_-;)

長南町は浜野から大多喜を通り勝浦に抜ける房総中往環の宿場として発達し

日蓮の生誕地、小湊や清澄山、坂東三十二番札所清水寺へ向かう信仰の道として
大勢の人々が行き交ったと言う宿場町!

道標の正面には『右 大田喜ばう志う道』とあり
大多喜の喜の字が七を三つ並べた旧漢字で書かれています

北側には『南無妙法蓮華経』
裏側は『左 いちのミや、きよみづ道』
そして南側には『安永六丁酉歳孟春吉日
石工御園権兵衛義殷』と彫られています

まぎれもなくこの県道147号線は旧房総街道だったのですね!

この道標は長南町指定有形文化財となっています!

そして、長南町役場前まで行くと『正岡子規』の石碑がありました

『春雨のわれ簑著たり笠著たり』子規…!

正岡子規は東京帝大の学生であった
明治24年3月25日、房総行脚を思いたち

東京本郷の寄宿舎より市川-船橋-成田-
千葉-長柄-長南-大多喜-小湊-館山-
鋸山までの旅をして

一連の房総『隠れみの紀行』を遺しています!

子規は3月28日この長南町まで来て小雨に降られ、町中で簑を買った事が
『子規全集』講談社出版、第21巻『草稿ノート』に遺されています!

この大俳人が長南町を行脚し名句を遺された事は文学的遺産であり
ここに正岡子規を偲び句碑を建立した…と書いてありました

もし、よければ私の房総ENJoY -LIFE
NO 397『正岡子規と豊田尚一』を読んで戴ければ
子規が千葉で記念写真を撮った経緯を書いています!

『明治24年千葉、豊田写真館にて撮影!』

さて正岡子規の石碑を見て
走り出したら今度は、何と素堀りのトンネルがありました!
バイクを停めて見てみました

だけと、これは農作業に畑へ向かうのに掘られた近道のトンネルのようです!

バイクにまたがり走り出そうかと思った処
いつも通る度に見かけるお地蔵様

気になって今回、手を合わせてきましたが
何があってここにお地蔵様があるのでしょうか?

地蔵様の先にある『かねまさ水産』の御主人に話を聞いて見ました

ここは 以前 房総ENJOY - LIFEのNO 123で紹介したお魚屋さんです!

あのお地蔵様にまつわる話しは
昭和61年10月10日体育の日の朝方、8時45分

その日は長南町西小学校児童、91人が
2.5キロ程離れた町民グラウントまで
運動会の為2列に並んで向かう途中でした!

そこは緩い左カーブで車を運転していたのは夜勤明けの19歳の工員
車のハンドルは改造された極端に小さな物だったそうです!

学童を避ける為、反対車線にふくらんで
すれ違おうとした際

対向車が来た為にハンドルを切ったのですが
誤って児童の列に突っ込んだと言うのです!(-_-;)

小学生1、2年生の5名が死亡すると言う大惨事となった訳です!

あれから29年、生きていればもう結婚して小学生の子供が居てもおかしくない歳ですね!

知らなかったとは言えこの道は今まで何度となく通っていたのに
いつも素通りしていました!

今度からは前を通る時はちゃんと手を合わせてから通ろうと思います

※『いつも御世話になってるかねまさ水産さんと佐坪八幡神社!
元NHK の宮田アナが宮司を務める神社です!』※

事故当時、犠牲となった児童のお父さんお母さんは達は
丁度、私達位の年頃なのではないでしょうか?

親よりも先に我子供に先立たれてはたまりません!

心に残った思いがどれだけのものだったかは
想像を絶します!

旧大多喜街道に着く前に話が反れてしまいましたが

もし皆さんも長南町役場前を通られた際には
手を合わせて戴ければありがたいと思う次第です!

先日、安全運転でぶっ飛ばして運転した
私なんですが
本当に反省しなければならないとおもいました!m(__)m

旧大多喜街道はまた次回に!
お付きあい誠にありがとうございました!
m(__)m


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