醍醐新兵衛と鯨塚(鋸南町坂井ヶ谷)NO 900
NO 900
千葉県鋸南町勝山、この地は明治の始め頃まで
捕鯨が盛んに行われた房総捕鯨発祥地だったそうです
今回、鯨にたずさわる『鯨塚』…と言うのがあると言うのでが探してみました
そんな勝山の商店街を歩いていると
『いさな通り』…と言う案内板がありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/4f/91/j/o0480064013202806597.jpg?caw=800)
この『いさな通り』は昔、解体された鯨から取れる鯨油を港から運んだ道だったそうです
当時はアスファルトの道なんて無かったでしょうから
荷車に鯨油を積んで、でこぼこ道を人力で引いて行ったのでしょうね!
鯨塚の地図を見ると、商店街から南方向へ歩いて行った所
歩きながら探して行きましたが場所が分からなくなってしまいました!
庭先で畑仕事をしてるお爺ちゃんに道を訪ねると
なんと!
『散歩がてらに一緒に行きましょう!』…と案内してくれました
歩きながら、話してみるとお爺ちゃんは
『H さん』と言う、昭和5年生まれの
現在86歳
横浜で鉄工業の仕事をしてあったそうですが
定年を機会に、この安房勝山に引っ越してきたそうです!
処が妻に先立たれ、今は独り暮らしなんだそうです!
『この山があるから、西風があたらないから暖かい土地ですよ!』…と言ってました
お爺ちゃんは話相手が欲しかったんだと思います!
身の上話をしながら歩いていたら、見えて来ました!鯨塚の案内板!
でも、この案内板!?なんか、観光地の案内板のようですね!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/86/2e/j/o0480064013202815245.jpg?caw=800)
処が塚の前まで来てみると、雰囲気はガラッと変わって
歴史を感じる鳥居と石段がありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/09/84/j/o0480064013202815270.jpg?caw=800)
※この弁財天はH さんが積った枯葉を取り除いてくれました!※
ここ板井ヶ谷は勝山藩酒井氏の分家の旗本酒井家の弁財天だそうで
そこで出て来るのが醍醐新兵衛!
寛永7年(1630年)~宝永元年(1704年)
前回、大黒山にあるお墓の事で少しお話ししましたが
醍醐家は代々新兵衛を名乗り捕鯨業の総元締で11代続く家柄!(^_^)v
船乗りを鯨組、鯨の解体を出刃組、鯨油を摂る釜前人足など組織化して、
大名主として村を指導して行きました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/fa/9b/j/o0480064013202815280.jpg?caw=800)
板井ヶ谷の弁財天境界にあるのは鯨塚と呼ばれるもので
漁は浦賀水道に入り込んだツチ鯨が主で
ひと夏の捕鯨が終る毎に出刃組が
鯨への感謝と供養を兼ねて
年に一基ずつ建立された物だそうです
けして鯨のお墓ではないのだそうです!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/f3/21/j/o0480064013202815298.jpg?caw=800)
その後、捕鯨は群が来なくなり勝山の捕鯨は衰退していってしまいます!
新兵衛10代目、徳太郎は洋式捕鯨を取り入れ
小笠原、伊豆大島洋上に漁にでましたが
明治10年以降、不漁により勝山捕鯨は終りを告げました!
そして醍醐新兵衛11代目には跡取りがなく
その後新兵衛の名を継ぐ人物は途絶えてしまったと言います!
でも現在、千葉県には醍醐姓の方が多いのは?
きっと何か関係があるのではないでしょうか?
帰り道、道案内して戴いた『H爺 さん』!
房総に来て地層を調べていると言うのです!\(^-^)/
房総の地層は乾けばボロボロになるけど
水を含むと堅くなる地層だと言うのです!
液状化現象にも耐えられる土だと話してくれました!
また一緒を散歩が出来るよう、挨拶に伺います!
それまで、元気でいてください!m(__)m
この出逢い大切にしたいと思っています
一期一会では終わらしたくない出逢いでした!
勝山地区の祭礼は7月第2土曜日に開催
その祭礼の翌日の日曜日には浮島への島渡しがあり
鯨唄が歌われるそうです!(^_^)
今年は是非!有休を使ってでも行ってみなくては…!
お付きあいありがとうございました!
m(__)m
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千葉県鋸南町勝山、この地は明治の始め頃まで
捕鯨が盛んに行われた房総捕鯨発祥地だったそうです
今回、鯨にたずさわる『鯨塚』…と言うのがあると言うのでが探してみました
そんな勝山の商店街を歩いていると
『いさな通り』…と言う案内板がありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/4f/91/j/o0480064013202806597.jpg?caw=800)
この『いさな通り』は昔、解体された鯨から取れる鯨油を港から運んだ道だったそうです
当時はアスファルトの道なんて無かったでしょうから
荷車に鯨油を積んで、でこぼこ道を人力で引いて行ったのでしょうね!
鯨塚の地図を見ると、商店街から南方向へ歩いて行った所
歩きながら探して行きましたが場所が分からなくなってしまいました!
庭先で畑仕事をしてるお爺ちゃんに道を訪ねると
なんと!
『散歩がてらに一緒に行きましょう!』…と案内してくれました
歩きながら、話してみるとお爺ちゃんは
『H さん』と言う、昭和5年生まれの
現在86歳
横浜で鉄工業の仕事をしてあったそうですが
定年を機会に、この安房勝山に引っ越してきたそうです!
処が妻に先立たれ、今は独り暮らしなんだそうです!
『この山があるから、西風があたらないから暖かい土地ですよ!』…と言ってました
お爺ちゃんは話相手が欲しかったんだと思います!
身の上話をしながら歩いていたら、見えて来ました!鯨塚の案内板!
でも、この案内板!?なんか、観光地の案内板のようですね!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/86/2e/j/o0480064013202815245.jpg?caw=800)
処が塚の前まで来てみると、雰囲気はガラッと変わって
歴史を感じる鳥居と石段がありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/09/84/j/o0480064013202815270.jpg?caw=800)
※この弁財天はH さんが積った枯葉を取り除いてくれました!※
ここ板井ヶ谷は勝山藩酒井氏の分家の旗本酒井家の弁財天だそうで
そこで出て来るのが醍醐新兵衛!
寛永7年(1630年)~宝永元年(1704年)
前回、大黒山にあるお墓の事で少しお話ししましたが
醍醐家は代々新兵衛を名乗り捕鯨業の総元締で11代続く家柄!(^_^)v
船乗りを鯨組、鯨の解体を出刃組、鯨油を摂る釜前人足など組織化して、
大名主として村を指導して行きました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/fa/9b/j/o0480064013202815280.jpg?caw=800)
板井ヶ谷の弁財天境界にあるのは鯨塚と呼ばれるもので
漁は浦賀水道に入り込んだツチ鯨が主で
ひと夏の捕鯨が終る毎に出刃組が
鯨への感謝と供養を兼ねて
年に一基ずつ建立された物だそうです
けして鯨のお墓ではないのだそうです!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150129/17/kawasemi726/f3/21/j/o0480064013202815298.jpg?caw=800)
その後、捕鯨は群が来なくなり勝山の捕鯨は衰退していってしまいます!
新兵衛10代目、徳太郎は洋式捕鯨を取り入れ
小笠原、伊豆大島洋上に漁にでましたが
明治10年以降、不漁により勝山捕鯨は終りを告げました!
そして醍醐新兵衛11代目には跡取りがなく
その後新兵衛の名を継ぐ人物は途絶えてしまったと言います!
でも現在、千葉県には醍醐姓の方が多いのは?
きっと何か関係があるのではないでしょうか?
帰り道、道案内して戴いた『H爺 さん』!
房総に来て地層を調べていると言うのです!\(^-^)/
房総の地層は乾けばボロボロになるけど
水を含むと堅くなる地層だと言うのです!
液状化現象にも耐えられる土だと話してくれました!
また一緒を散歩が出来るよう、挨拶に伺います!
それまで、元気でいてください!m(__)m
この出逢い大切にしたいと思っています
一期一会では終わらしたくない出逢いでした!
勝山地区の祭礼は7月第2土曜日に開催
その祭礼の翌日の日曜日には浮島への島渡しがあり
鯨唄が歌われるそうです!(^_^)
今年は是非!有休を使ってでも行ってみなくては…!
お付きあいありがとうございました!
m(__)m
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