安倍新総裁に望むこと | 奈良県議会議員 井岡正徳 オフィシャルブログ「明るく、元気に毎日がんばってます。」Powered by Ameba

安倍新総裁に望むこと

地方票との乖離はありましたが、ルール上安倍さんが新総裁に決まりました。

前回の失敗を教訓にぜひ頑張っていただきたい。

以下のレポートは平成20年7月22日に私が書いたものです。

参考にしてください。

1、テーマ・安倍内閣の誤算と失敗(幼稚な学芸会)

 2006年総裁選で勝利を得た安倍首相は、能力本位、適材適所というのではなく、「情」に流される弱さがあり人事失敗することが多かった。

 安倍首相は当初は左右のバランスに目配りし、前任者の小泉純一郎と対照的に、党内融和や話し合いにも軸足を置く姿勢を見せていたが、郵政民営化反対議員らの自民党復帰騒動の時など、小泉前首相のような指導力がみられなかったので、しだいにタカ派色の強い保守主義に回帰していった。

 当初、党幹事長には、遊説で聴衆のうけが良い麻生の起用を考えていたが、清和政策研究会の森喜朗・元首相が、清和研を維持していくためには、自民党の金庫を握る幹事長か、使途の公開が不要な政府の「機密費」を預かる官房長官のポストを、自派で確保しておきたかったから、難色を示したようである。

 ところが安倍は、幹事長を麻生派に渡すばかりでなく、官房長官にも丹羽・古賀派の盟友、塩崎恭久を抜擢しようとしていたが、結局、安倍は、官房長官には当初の構想通りに塩崎を就けたものの、中川を幹事長にし、麻生外相を続投するよう要請した。参院からの入閣についても、「参院入閣枠二人は守るが、人選は自ら行う」と宣言しながら、結局、参院自民党執行部の要望通りにするしかなかった。

 安倍の誤算と失敗は続き、政府税制調査会長の人事でも、財務省が推す石弘光の続投ではなく、元経済財政諮問会議議員で、経済成長を重視する本間正明・大阪大学教授の起用を提案したが、本間の会長就任からわずか1か月余り過ぎた時に、週刊誌が、本間が常勤の国家公務員ではないにもかかわらず、国家公務員宿舎に妻以外の女性と入居していたと報じた。

 石弘光の続投を潰し、財務省との対決姿勢を見せた安倍官邸に打撃を与えるために、財務省が意図的に情報を漏らしたのではないかと疑った。自民党からも、税制の主導権を党から奪おうとする安倍官邸への強い不満が根底にあった。

 安倍内閣の閣僚交代は実に5人に上り、政治回体の不明朗な会計処理で佐田玄一郎が行政改革相を辞し、事務所費問題など「政治とカネ」をめぐって、松岡利勝農相、赤城徳彦農相、遠藤武彦農相も職責をまっとうできなかった。

 さらに、久間章生は、2007年6月の地方講演で、米国による広島・長崎への原爆投下は「しようがない」と発言し、高々たる批判にさらされた挙句、辞任に追い込まれ、そして、柳沢伯夫厚生労働相の「女性は産む機械」発言も政権を直撃した。

 柳沢は、06年総裁選で安倍陣営の選挙対策本部長を務めていた。「産む機械」発言の約1か月前に辞めた佐田も、総裁選の功績で入閣したと言われており、安倍の人事には「論功行賞」と「側近重用」の二つの言葉が、悪いイメージでつきまとった。

 5人の閣僚交代制で、最も衝撃的だったのは、松岡の自殺であり、その後任の赤城徳彦も、政治とカネの問題で火だるまになった上、事務所問題を報道され、その10日後の閣議に、赤城は、大きな絆創膏を張り、無精髭で現れ、閣議後の記者会見で、絆創膏の理由を問われても、たいしたことではないと繰り返すばかりであった。

 相次ぐ閣僚の失言、不祥事、事務所費問題に直面した安倍は、問題を起こした閣僚の首をとろうとはせず、擁護した。

 塩崎には、与党への根回し不足、調整力の欠如、霞が閣との冷え切った関係、悪評が絶えず、その上、地元事務所の女性職員による政治資金を使い込み事件もあり「塩崎が内閣改造で続投することはあり得ない」という見方がもっぱらだったが、安倍自身は塩崎がこの時、安倍のもとを去る意向を伝えるまで、官房長官に塩崎を再任する選択肢を捨てていなかったようだ。

 安倍官邸の機能不全の「元凶」とまで酷評された井上首相秘書官に対しても、安倍は周囲から再三、更迭するよう進言されたが、耳を傾けなかった。

 井上の悪いところは、産経新聞へのりークが繰り返される一方、朝日新聞とは敵対し、朝日の異常なまでの『反安倍』キャンペーンを誘発したことが命取りになった。

 それでも安倍は、井上を擁護する姿勢を崩さなかったのである。

 事務の官房副長官は、旧内務省系の事務次官経験者を起用するのが近年の慣例であるのに、安
倍は、自らの首相就任時点で、まだ在任3年だった旧自治省出身の二橋正弘を再任せず、長く民間企業に勤めていた大蔵省出身の的場順三を据えたが、現役を離れて久しく、霞が間との調整は荷が重すぎたのである。

 官邸主導を目指した安倍は、官邸に自分が自民党改革実行本部長の時の事務局長だった塩崎恭久、事務局次長の世耕弘成ら信頼できる仲間を選んだ。

 内閣法では、首相補佐官は5人を上限に首相が任命でき、「重要政策に関し、首相に進言し、命を受けて意見を具申する」と規定されている。これを目一杯、活用しようと思い、首相補佐官に対し、首相が「特命事項」を与えることで、制度の弱点を桶おうとした。ただ、首相補佐官に政治家を任命することについては、塩崎でさえ慎重論を唱えていた。

 しかし、安倍は、とりあえず、政治家でやってみて、うまくいかなければ、変えればいいと、自分に近い政治家を首相補佐官に起用するという考えを押し通した。

 国家安全保障問題担当には小池百合子・前環境相を起用し、日本版NSC(米国家安全保障会議)の実現を目指させた。経済財政担当には根本匠衆院議員が選ばれた。根本は、安倍、石原仲晃・元国土交通担、塩崎とともに、それぞれの頭文字を取った政策グループ「NAIS」で活動していた。安倍の「お友達」の一人である。教育再生担当には山谷えり子参院議員を就けた。広報担当には世耕弘成が志願して就任した。安倍が力を入れる拉致問題は、安倍とともに外務省主導の対北朝鮮外交に異を唱えてきた中山恭子・元内閣官房参与が担当した。

 しかし、安倍政権を通じ、首相補佐官制度が十分機能したという評価は乏しかった。むしろ、行政を混乱させた、という批判の方が多かった。
「形」を優先させる安倍の姿勢は、首相や官房長官を長とする政策会議を次々と新設し、約80ある会議を、安倍政権で17も増やした。

 07年2月、自民党政調会長だった中川昭一は2度にわたり、「似たような会議をいっぱい作るな」と塩崎に申し入れた。この異例の申し入れは、「与党を無視するかのような会議の乱立は、政策決定に関する党との摩擦を増大させるだけだ」という党内の意見を踏まえたものであった。

 中曽根康弘や橋本龍太郎をはじめ歴代首相は、情報や権限を手放そうとしない省庁を従わせるため、官邸主導の確立に腐心してきた。小泉純一郎は国民的人気などを背景に、郵政民営化に非協力的と見た次官候補の総務省幹部を事実上更迭する強権を発動した。

 安倍には小泉のような強烈なカリスマ性はなかったので、『システム』を変えることで政治主導を確立しようと考えた。
安倍政権に漂っていた官僚機構に対する敵対心は、異様なほどであった。

 安倍の毎日の日程調整を取り仕切っていた首相秘書官の井上は、各省庁の幹部が個別に政策説明に訪れることを厳しく制限した。このことで、官僚からの重要情報が安倍に直接入りにくくなってしまった。

 安倍官邸の霞が関との対決姿勢は、渡辺喜美行政改革相の就任を契機に本格化した公務員制度改革に至っては、「公務員バッシング」とまで言われるようになった。

 安倍は07年2月、衆院予算委員会での答弁で、官僚の天下りに関し、省庁による押しつけ的な再就職の斡旋が「実態としてあったと思う」と述べ、それまでの政府見解を転換した。

 この転換と軌を一にして、渡辺を中心に、公務員制度改革の政府原案がまとめられたが、いずれも、霞が開の慣行を根底から覆す内容であり、渡辺の示した政府原案に対し、人事院や旧自治官僚出身の片山虎之肋・参院幹事長や旧大蔵官僚の宮沢洋一・党行政政革推進本部事務局長など各方面からの反対論が沸きあがった。

 霞が関や自民党の反対論が強くなればなるほど、かつて小泉が最大限に活用した「官邸ら抵抗勢力」という対決構図に持ち込むことができる。それが安倍政権の浮揚につながると、渡辺にはそんな計算も働いていた。

 当初は異論を唱えた塩崎も、渡辺と連携するようになり、公務員制度改革関連法案は自民党内の反対論を押し切る格好で、07年の通常国会で成立した。

 しかしこのことで、役所を敵に回したことは間違いない。地方公務員も敵に回したから、比例選で自民党の官僚出身の候補に票が集まらなかった。現に、民主党の自治労組織推薦の相原久美子候補は比例でトップ当選を果たした。

 安倍内閣で象徴的な例が、小泉政権で官邸主導の経済財政諮問会議の変容であった。
小泉政権の諮問会議には、経財相として会議を取り仕切った竹中平蔵が「改革のゴールデン・パターン」と呼んだ定型シナリオがあった。
〈民間議員らの提案に与党や官僚が反発する→世間の耳目を集める→最後に首相が決断する〉
「官邸主導」をよりドラマチックに見せる手法である。

 安倍も、それを踏襲しようとし、公務員制度改革、道路特定財源の一般財源化などの進め方に、それが見て取れたが、竹中の役回りを演じるはずの大田には、「自分でリスクをとらない。経財相が大田になってから、民間議員の提案も極端に減った」などと、厳しい評価があがった。

 しかし、成田国際空港会社の社長人事で、国土交通省が示した元運輸次官の黒野匡彦社長の再任案を塩崎が蹴り、民間の森中小三郎・住友商事特別顧問を据えた時、財界に根回ししたのは大田だったという。

 その意味では、安倍が大田に託したのは、竹中のような役割ではなく、関係方面との調整を進める役割であった。

 かつて、自民党一強の政治・右肩がりの経済の時代が長く続いた。そんな時代に派閥による統制、族議員による政策決定によって政権を運営したベテラン・長老からすれば、安倍政権の挫折は幼稚な政治家たちが繰り広げた学芸会に見えたかもしれない。

 経済状況の激変と小泉政権によって破壊されていた。派閥、族議員を批判し、世論を喚起して首相主導政治を展開した小泉のような芸当も、もとより持ち合わせていなかった。

 この一年を振り返ると、もっとも欠落していたのは判断力ではなかったか。その理由は、これまでの検証で見てきたとおり、安倍を支える陣立てが整っていなかったことが大きく影響している。人気先行政治の構造的な負の側面である。

 的確な判断には多彩な情報の人手と分析、評価が不可欠だ。政治は、情報を使った戦いでもある。これを勝ち抜くためには、優れた幕僚がいなければならない。

 小泉には飯島勲がいたが、安倍には飯島に相当する逸材がいなかった。
飯島は内閣の不祥事や都合の悪い情報を事前に察知する網をかけ、報道される前に他の秘書官や関係官庁に時間を問わず連絡を入れて招集、対処方針と首相の応答要領を即座に決めていったと思われる。いかにこのような裏方が必要であるか、私も身にもって感じることがある。

 それと、安倍は成蹊大出身であるので、官僚や御用学者の多い東大、財界や政治家に多い慶応・早稲田や竹中・大田出身の一橋など、学閥の人脈にも恵まれなかったため、それらの意見や忠告・情報が入らなかったことも大きな原因だ。

 安倍首相は、『システム』を変えることで政治主導を確立しようとしたが、泥水をすすってたたき上げて政治家になり、深い人脈を築いている人や、官僚出身で霞ヶ関に横のつながりを持っている情報豊富な政治家や、頭脳明晰で何事にもしたたかな現職官僚を、操ろうとすれば何事にもきれいごとではすまない。この人たちを動かそうとしたら、正攻法では前に進むわけがない。いろんな合わせ技が必要である。

 この内閣は、それぞれの力を生かして、協調しながら、目指す政治、政策を追求することができなかった。その責任はすべて安倍首相だ。経験不足、準備不足は言い訳にならない。この人にはその器がなかったと言うことだ。

参考文献
「空白の宰相」2007年11月7日発行 著者・柿崎有二 久江雅彦 発行所・講談社
「民主党の研究」2007年12月10日発行 著者・塩田潮 発行所・平凡社
「福田vs.小沢 大連立の乱」2007年12月15日発行 著者・大下英治 発行所・徳間書店
「永田町vs.霞ヶ関」2007年5月7日発行 著者・桝添要一 発行所・講談社
「真空国会」2008年4月25日発行 著者・読売新聞政治部 発行所・新潮社