俳人協会機関紙「俳句文学館」8/5号一面は「鷹羽狩行名誉会長逝去追悼特集」でした。


◎片山由美子さん

俳句とともに生きて    狩行先生と俳人協会 片山由美子

    鷹羽狩行先生が亡くなられた。その90年を超える生涯のうち、およそ80年を俳句とともに生きてこられたことになる。私がお目にかかったとき、先生はまだ40代だった。それから半世紀近くが過ぎたことを思うと感慨深い。


    先生はさまざまな仕事を引き受けられ、どんどん忙しくなる時代を迎えた。後には俳人協会の副会長兼理事長になられたが、そのときには各種の教室などをすべて辞め、協会の仕事に全力投球されるようになった。先生にとっては、結社と俳人協会が何より大切だった。会長に就任してからは、創立以来の俳人協会の精神を引き継ぎ、守っていくことがご自身の使命と考えていらっしゃったと思う。そして、将来に向けて協会が何をなすべきかをいつも気に掛けられていた。


    忙しくされていた先生だが、私たち弟子にとっては変わるることことのない先生だった。弟子といったが、じつは先生は私たちのことを弟子とおっしゃったことは一度もない。どんなときも「わたしの俳句の仲間たちが」と話されるのだった。


    先生のご指導は正確でぶれることがなかった。誰にでも公平であるのはご人格のなせるところ、先生は完璧主義者であり潔癖であるがゆえに、他人に厳しすぎるといわれることもあった。だがその厳しさは、相手に対してである以上にご自身に対するものだった。常に相手の立場を尊重し、負担をかけないようにという心遣いをされていた。


    先生は、俳句を通して多くの人たちと出会えて幸せだった、という言葉を遺された。私たちは先生と巡り合うことができて本当に幸せだった。

    先生、ありがとうござました。


◎俳人協会会長・大串章さん

追悼   鷹羽狩行名誉会長 公益社団法人俳人協会会長 大串 章

    鷹羽狩行先生のご逝去の報に接し、悲しみにたえません。謹んでお悔みの意を表します。


    先生は山形県新庄市のご出身で、山口誓子、秋元不死男に師事し昭和40年、35歳で第一句集『誕生』により俳人協会賞を受賞されており、昭和53年には「狩」を創刊されて終刊までの40年間多くのすぐれた俳人を輩出されました。


    俳人協会には設立2年目の昭和37年に入会、53年に理事、平成5年に理事長に就任され、9年間理事長として理事会を初めとした協会運営の改革をされる一方、会員全員が同じ資格で参加できる「俳句大賞」や展示室を広く公開して「俳人協会回顧展」などの新規事業にも着手されるなど会員の増加に努められました。平成14年第7代会長に就任、平成24年には厳しい条件を充たしながら公益法人への移行をなし遂げられ、日本に誇れる文芸団体として俳人協会の地位を確立していただきました。


    他の俳句協会とも連携を深められ、平成29年には俳句のユネスコ無形文化遺産登録推進へ向けて推進協議会を設立して登録への道すじを作っていただくなど、「わが国文化の向上に寄与する」という俳人協会の目的に向かって尽力されたご功績は大きなものがあります。 


    先生は、その後、句集『十五峯』で蛇笏賞と詩歌文学館賞をダブル受賞、平成15年には「闊達さの際立つ句風を確立し、後進の育成にも尽力」したとして日本芸術院会員に推挙されました。平成29年、会長を退任され名誉会長に就任後も協会のために尽くされました。


    哀悼の念は尽きることがありませんが、ここに深い感謝と敬意を込めご冥福をお祈り申しあげます。


◎事務局として

事務局のお見送り 西嶋あさ子さん

 平成23年3月の東日本大震災は、俳人協会の歴史上、記録に記憶に残る一大事であった。鷹羽狩行会長と理事長の緊急打合せ、理事会での大筋承認、4月には理事長を委員長として会長も含めた対策委員会が発足、色紙短冊頒布会をはじめ救援活動を展開、年末には3400万余円を日赤に寄託。この展開の速さ、充実した日々は他にも経験した。テンポが速い。


 鷹羽会長は日常的に、協会全体を見ていらっしゃったが、各支部の状況把握、支部への派遣講師を地方の方々に委嘱することを進められた。講師の固定化を避け、交流を深め、人を育てていくお考えが根底にあった。殊に関西支部については期待していらっしゃった。期待をかけた方が、健康や仕事で応えられないと「これから俳人として伸びていく人だから、無理はさせられない」とつぶやかれた。俳人として、作品と評論との活動を期待されるのも常であった。


 とかく理知の人と簡単に評する人も無きにしも非ずだが、遺された多くの俳句を読めば自ずとわかることだ。


 外部の件では、国民文化祭の例を引こう。国の毎年の行事で、鷹羽会長は企画の段階から関わり、「文化庁の関係がある限り僕は参加します」 と言われた。他協会との交流も大事にされた。


 第8代大串章会長に後を託されたときのお二人の破顔の握手は印象に残る。


 鷹羽会長が、俳句文学館を後になさるとき、事務局員は自然と立ち、お見送りをする。先生は、「いいんだよ」と玄関を出て道路を渡り、くるっと振り向いて片手をあげてお帰りになるのだ。幸せなひとときであった。


 鷹羽狩行先生、もう一度、振り向いてくださいませ。

 ありがとうございました。

【鷹羽狩行さん】1930年(昭和5年)山形県生まれ。2024年(令和6年)5月27日死去。1943年、旧制尾道商業高校入学し、同校の教師新開千晩教えを受け、校内俳句雑誌「銀河」で俳句を始める。1947年より佐野まもる青潮」に投句。1948年、山口誓子の創刊の言葉に共感し「天狼」に入会。1949年、中央大学法学部入学。1951年「青潮」同人。中央大学を卒業後、プレス工業株式会社入社。加藤かけい主宰の「環礁」に同人として参加。1954年、秋元不死男が創刊した「氷海」に同人参加、上田五千石堀井春一郎らと氷海新人会を結成。1958年結婚。1959年、前年の結婚を機に、誓子から本名(髙橋行男たかはしゆきお)をもじった「鷹羽狩行」の俳号を貰い、以後これを用いる。同年より「氷海」編集長。1960年、第11回天狼賞受賞、「天狼」同人。1965年、第一句集『誕生』を上梓し、第5回俳人協会賞を受賞。1966年、俳人協会幹事。1968年、スバル賞(「天狼」同人賞)受賞。草間時彦岸田稚魚らと超結社塔の会」結成。1975年、句集『平遠』で第25回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1976年、毎日俳壇選者(2020年まで)。1977年、会社を退職し俳句専業となる。1978年、俳誌「」を創刊、主宰。2002年、句集『翼灯集』『十三星』で毎日芸術賞受賞。同年俳人協会会長に就任。2008年、句集『十五峯』で第42回蛇笏賞および第23回詩歌文学館賞受賞。2009年、神奈川文化賞受賞。2015年、日本芸術院賞受賞。同年、日本藝術院会員。2019年正月、平成最後の歌会始召人を務めた。俳人協会名誉会長、日本文藝家協会常務理事、日本現代詩歌文学館振興会常任理事、国際俳句交流協会顧問。2024年5月27日午後7時28分、老衰のため死去。93歳没。代表句に「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」「みちのくの星入り氷柱われに呉れよ」「摩天楼より新緑がパセリほど」「紅梅や枝々は空奪ひあひ」などがある。句集多数の上、多数の選句集、俳書、随筆、共著がある。