広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第60回】貴船と波多野爽波 セクトポリテック 2023/2/20

 貴船は京都左京区の北西部にあり、鞍馬山と隣接する貴船山の麓の地域。和泉式部「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」と詠われた貴船川は、平安京の水源地であったため、貴船神社は水を司る神として崇められ、7月7日に雅な貴船の水まつりが行われる。
 
大正期からの納涼川床(ゆか)も有名で、蛍石や可憐なキブネギクもよく知られている。鞍馬方面からは、由岐神社、鞍馬寺本堂、義経伝説の史跡や大杉の根が這う「木の根道」を巡り、奥の院を経て貴船に下る道がよく歩かれている。

新緑や人の少なき貴船村 波多野爽波(第一句集『舗道の花』)

「夏には貴船川沿いの川床は納涼客で賑わうが、時期を違えた初夏(新緑)の頃、閑散としていたとは意外な事実。言葉の抑制が効いている佳句である」(中岡毅雄)

「爽波は、一言も蛍とは言っていないが貴船を知る者には、地霊であるかのように飛ぶ蛍が見える、新緑の隠れる闇の中から蛍の多き貴船村が現れる」(猫髭)

「人がいないという空虚感を強調する物として季語が置かれている」(山口優夢)

貴船川床並め貴船菊亡びつつ 富安風生

貴船より奥に人住む葛の花 松尾いはほ

斎(いつき)の灯源流へ雪溯(のぼ)り来て 古沢太穂

柿採の繰り出す竿も貴船道 藤田湘子

花びらの流るる音や貴船川 長谷川 櫂

★この川の鮎と出されし蒼さかな 中村房枝

朝食も川床に運ばれ貴船宿 柴田多鶴子

鞍馬より貴船へ杉の花まみれ 広渡敬雄 

波多野爽波は、大正12(1923)年東京府生まれ、本名は敬栄(よしひで)。祖父は元宮内大臣の子爵波多野敬直で、学習院中等科より俳句を始め、高等科進学後、句会「木犀会」のリーダーとなった(三島由紀夫等入会)。「玉藻」例会にも参加し、17歳で虚子に対面、翌年「ホトトギス」に入門し、京極杞陽の指導も受けた。京都大学経済学部進学後、学徒出陣のため応召。父母を相次いで亡くし、復学して「京大ホトトギス会」を復活させ、幹事を務めた。又若手の関西グループを結集して「春菜会」を発足。東京の新人会と対抗して、鎌倉虚子庵、山中湖虚子山廬、千葉県鹿野山神野寺での「合同の稽古会」等で虚子選を競った。昭和24(1949)年、最年少の「ホトトギス」同人となった。

 30歳の同28年、虚子の祝句〈青といふ雑誌チューリップヒヤシンス〉を得て「」創刊主宰。更に同31年には、三島由紀夫に「最初から完成した、瑞々しく繊細な感覚で、戦時中にこんな爽やかな青春があったことに愕かされる」と称された第一句集『舗道の花』を上梓した。 虚子を唯一の師と仰ぎ、同32年には橋本鶏二・野見山朱鳥・福田蓼汀と「四誌連合会」を発足させ、虚子の死の直前に「ホトトギス」を離脱し、俳人赤尾兜子、堀葦男、林田紀音夫、金子兜太、鈴木六林男等前衛作家とも交流した。

 「写生は、自己以外の外界と日常的な接触以上に接触することで、予想もしなかったものに出会う。写生の成功はものが見えたのと言葉が同時であり、写生には、体力、気力が要る」との理論を展開し(「波多野爽波論―言葉と写生」)、中堅俳人に加え若手の田中裕明、岸本尚毅、島田牙城、中岡毅雄、山口昭男、上田青蛙、橋本石火等を育てた。

 「俳句スポーツ説―若者のために」(俳句年鑑昭和58年度版)で「俳句では、身体で受止め、瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊りとして一時に出てくるような体質づくりを目指して、恰もスポーツの練習を反復するように写生の修業、「芸」としての修業が絶対に不可欠」と多作多捨、多読多憶を推奨した。これは、俳壇で物議をかもした。晩年は体調を崩し、平成3(1991)年逝去。享年68歳。墓は京都岩倉の圓通寺で、〈夜の湖の暗きを流れ桐一葉〉の句碑があり、句集は他に『湯呑』『骰子』『一筆』『波多野爽波全句集(含む一筆以後)』がある。「爽波は抒情を捨て、最後は叙景を捨てた」(古舘曹人)

「本当の贅沢を知っている最後の世代の人」(飯島晴子)

「文学や特別な思想とは無縁ながら独自の世界を確立した」(宇多喜代子)

「人間に関する興味(ヒューマンインタレスト)から生まれた句が多い」(田中裕明)

「爽波俳句は、俳句形式に忠実であるが故に〈無名の肯定〉という思想を最も濃厚に体現している。我々は無名の自然に取巻かれ、我々自身も無名の生命である」(岸本尚毅)

「周囲に妥協せぬ反骨精神ゆえに物議を醸すこともあったが、柔軟な作風や真っ直ぐな俳句への情熱は多くの若者から大いに支持された」(角谷昌子)

「青の中堅実力俳人、若き俊英俳人、加えて交流した前衛作家等との緊張関係が爽波の創作意欲を燃え上がらせた源泉の一つ」(小川春休)

「貴人情薄しの面はあったが、当時の若手俳人への影響力は絶大で、今後とも読まれ続けられる俳人である」(「青垣」11号)

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ

白靴の中なる金の文字が見ゆ

下るにはまだ早ければ秋の山

冬空や猫塀づたひにどこへもゆける

金魚玉とり落としなば鋪道の花

レールより雨降りはじむ犬ふぐり 

鶴凍てて花の如きを糞りにけり

墓参より戻りてそれぞれの部屋に

ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

箒木が箒木を押し傾けて

掛稲のすぐそこにある湯呑かな

掃きながら木槿に人のかくれけり

桐の木のむかう桐の木昼寝村

炬燵出て歩いてゆけば嵐山

菱採りしあたりの水のぐつたりと

骰子の一の目赤し春の山

冬ざるるリボンかければ贈り物

裂かれたる穴子のみんな目が澄んで

いろいろな泳ぎ方してプールにひとり

老人よどこも網戸にしてひとり

チューリップ花びら外れかけてをり

大金をもちて茅の輪をくぐりけり

伐りし竹ねかせてありし少し坂