広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第57回】 隠岐と加藤楸邨 セクトポリテック2023/1/6

 隠岐は、島根半島北方50キロの日本海にあり、島前=どうぜん(知夫里島・西ノ島・中ノ島)、島後=どうごの計180余の島からなる。

 古来より遠流の地とされ、小野篁、伴健岑、後鳥羽上皇、後醍醐天皇等が流された。江戸時代は天領で、北前船の風待ち港として栄えた。 全島が大山隠岐国立公園(その後隠岐ユネスコ世界ジオパークにも)、国賀海岸は海食崖の景勝地で、隠岐牛が放牧され、牛突き(闘牛)が名高い。

西ノ島国賀海岸牧草地

★隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな 加藤楸邨

 〜太平洋戦争開戦九ヶ月前の昭和16年3月の隠岐行「後鳥羽院御火葬塚三十三句」の一句で、他に〈炎だつ木の芽相喚ぶごとくなり〉〈隠岐の院春寒くここに果てましき〉〈水温むとも動くものなかるべし〉がある。楸邨が最も愛着のある第三句集『雪後の天』に収録。他の隠岐吟〈牧の牛濡れて春星満つるかな〉〈鳥雲に隠岐の駄菓子のなつかしき〉も知られ、当地に句碑がある。自註に、「私の心の中の怒濤が次第に隠岐の怒濤と一つになり始め、滲み合う様に内と外とが重なり合って来た」と記す。平成12年より「隠岐後鳥羽院俳句大会」が行われている。

「楸邨の隠岐行は、後鳥羽院への追懐と芭蕉への思慕であり、胸中の「かなしび」・「ひとりごころ」(芭蕉晩年の究極の孤独感)と戦時下の時流への「いきどおり」であった」(山本健吉)

「木の芽(生命力)と怒濤(生命を脅かすもの)のみを描く省略の妙に、「木の芽」の季感が加味されて雄勁な景を描破し、院への哀悼の念を深く伝える」(鷹羽狩行)

「内に込められた力が、時に風を得て早春の海面を怒濤の様に崩していく。芽吹く命を取り囲む荒れ狂う波にも、父性の面影は宿っている」(饗庭孝男)

「島全体を鳥瞰する様な高さに視点を置いて、風景を凝縮する捉え方は、現在の映像処理技術に通じる新しさがある」(行方克巳)

「隠岐行以降、「寒雷」で唱導する理念「真実感合」へ作風が一大転換した」(江中真弓)

★鰯雲遠見る癖の隠岐の子ら 能村登四郎

隠岐枯れて空の波紋をたたみくる 石原八束

胴震ひして隠岐牛の雪払ふ 石 寒太

★石の戸のここな木の実の降りしきる(隠岐行宮) 宇多喜代子

★ちるさくら御火葬塚を奥ざまに(後鳥羽院山陵) 横澤放川

★烏賊飯や秋の潮満つ隠岐郡 棚山波朗

★入道雲恩師の如き牛に遇ふ 今井 聖

★八十八夜の波がいざなふ隠岐の島 谷中隆子

★わが航も飛魚も隠岐目指すかな 木暮陶句郎

★絶壁の際に降り来る夕雲雀 下手泰子後鳥羽院山陵

   加藤楸邨は、明治38(1905)年、東京都大田区北千束に生まれ、鉄道官吏の父の転勤で、関東、東海、東北、北陸と転々とし、金沢一中卒業後、父の病臥で進学を諦め、その死後母弟妹と上京、水戸で代用教員後、東京高等師範第一臨時教員養成所に入学。結婚後埼玉県立粕壁中学の教員となった。同僚の勧めで俳句を始め、水原秋櫻子「馬酔木」に入会し、馬酔木賞受賞後、昭和12(1937)年、石田波郷と共に「馬酔木」の編集をしながら、東京文理大学(現筑波大学)に通った。同14年、第一句集『寒雷』を刊行、又『俳句研究』(8月号)の座談会を機に、波郷、草田男らと共に「人間探求派」と呼ばれるようになった。

 同15年大学卒業後に府立八中教師となり、「寒雷」を創刊主宰。「馬酔木」同人を辞し、大本営報道部嘱託として中国太陸や各地を回った。大空襲で自宅焼失後の戦後同21(1946)年、「寒雷」復刊、青山学院女子短期大学教授となり、句集『火の記憶』『野哭』『起伏』『山脈』等意欲的に上梓。同43(1968)年、『まぼろしの鹿』で蛇笏賞を受賞し、朝日俳壇選者、日本芸術院会員となり、『怒濤』で詩歌文学館賞受賞。その後第一回現代俳句大賞,朝日賞受賞後、平成5(1993)年逝去。享年88歳。加藤楸邨句碑

 句集は他に『吹越』『猫』『加藤楸邨全句集』、評論『芭蕉講座』『奥の細道吟行』、シルクロード紀行『死の塔』がある。「寒雷」は同30年に終刊、『暖流』に継承された。

「後鳥羽の文学を継承したのは「水無瀬三吟」の宗祇、「柴門ノ辞」の芭蕉、そして「雪後の天」の楸邨である」(目崎徳衛)

「一句集ごとに見事に「螺旋志向」で変貌を遂げ、加えて虚子に並ぶ挨拶句の名人」(石 寒太)

「楸邨は俳句にも人の俳句にも、自分の句にも常に否定精神を持つ」(中村和弘)

「楸邨の本質は、ヒューマニズム、正しい生き方、箴言的表現でなく、一回性の対象との出会いを通して「私」を刻印すること」(今井 聖)

「楸邨山脈」と称され、伝統俳句系の森澄雄、社会性俳句・前衛俳句の金子兜太までの多様な俊英俳人を輩出し、牛の様な存在感がある。教師俳人の能村登四郎、鍵和田秞子と同様、人間としての魅力があり、門下の個性・作風を尊重し、門下には基本的に「自己肯定」があった。(「たかんな」令和5年1月号)

★棉の実を摘みゐてうたふこともなし

★かなしめば鵙金色の日を負ひ来

★蟻殺すわれを三人の子に見られぬ

★鰯雲人に告ぐべきことならず

★寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃

★長き長き春暁の貨車なつかしき

★蟇誰かものいへ声かぎり

★蝸牛いつか哀感を子はかくす

★白地着てこの郷愁の何処よりぞ

★十二月八日の霜の屋根幾万

★毛糸編はじまり妻の黙はじまる

★火の奥に牡丹崩るるさまを見つ(空襲で自宅焼失)

★雉子の眸のかうかうとして売られけり

★死ねば野分生きてゐしかば争へり

★鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

★木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ

★霜夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び

★落葉松はいつめざめても雪降りをり

★しづかなる力満ちゆきばつたとぶ

★原爆図唖々と口あく寒鴉

★洋梨はうまし芯までありがたう(川崎展宏へお礼返信)

★おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ

★ふくろふに深紅の手鞠つかれをり

★天の川わたるお多福豆一列

★百代の過客しんがりに猫の子も