★滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
〜昭和4(1929)年作。第一句集『翠黛』収録。高浜虚子選の「日本新名勝俳句」(昭和5年)の最優秀二十句(金賞)となり、「ホトトギス」の昭和6年9月号巻頭の夜半の代表句で、大滝の前に句碑がある。
「滝を高速度映画に写し取ったような句」(山本健吉)
「滝口に現れ落ちる水を活写し、滝の実相を描出。写生はこうありたい」(鷹羽狩行)
「力強い滝が簡潔に描かれ、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句は他にない」(清水哲男)
「滝が滝である状態の一切がここには描かれ、それ以外にはなにもない。句そのものの姿が一筋の滝のごとく潔く自立している」(西村和子)
「さして感動もなければ、夜半の俳人としての真骨頂が窺える句でもなく、虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見える句」(高橋治)
「俳句史上極めて重要な一句だが、最も夜半らしいかと言えば疑問あり」(西村麒麟)
★くるま駆る勝尾寺までの山紅葉 高浜年尾
★紅葉焚けば煙這ひゆく水の上 細見綾子
★大滝に至り著きけり紅葉狩 波多野爽波(滝道)
★滝の上に水現れてすぐ落ちず 後藤比奈夫
★瀧落ちて樹々も大地も眠らせず 西宮 舞
★箕面路の夕かげ早き簾かな 岸 風三樓
★滝壺を出て水音をやりなほす 小池康生
★日向へと水の急げる紅葉谷 田中春生【後藤夜半】明治28(1895)年、大阪市北区曽根崎新地に生まれ、本名潤。私塾泊園書院で漢籍を学び、北浜の証券業長門商店に約30年勤務した。父眞平(俳号古拙)の影響で、明治40年頃から俳句を始めた。次弟實は、喜多六平太の養子となって喜多流宗家を継ぎ、長弟得三も喜多流能楽師となった。
大正12(1923)年より、「ホトトギス」に投句し、虚子に師事。昭和4年、同誌課題句選者となる。「滝」の句で巻頭となった年に、「蘆火」を創刊(同9年病で廃刊)、同7年には「ホトトギス」同人に推挙された。同15(1940)年、『翠黛』を上梓、戦後は俳句専業となる。同23年に「花鳥集」を創刊主宰し、同28年に「諷詠」と改めた。
同37(1962)年、第二句集『青き獅子』、同43年に第三句集『彩色』を上し、「物の姿を描いて物の心にふれる写生」を説き、艶冶で淡々とした自己凝視の境涯句を詠んだ。同51年(1976)年8月29日、逝去。享年81歳。同53年、遺句集『底紅』が上梓された。俳話集に『入門花鳥諷詠』がある。「諷詠」二代目主宰は長男後藤比奈夫、三代目は嫡孫後藤立夫、四代目の現主宰は立夫の息女和田華凛である。「滝」の句碑(1)
「根っからの市井の人で、人の思惑に拘らぬ自在な町人の生き方を貫いた。高悟帰俗と言う言葉を借りれば、高悟のところは、他人の目に曝さないで、俗に帰したところを明るみに出して置く。そういう市井の人の根性を根底に宿している俳人。いわゆる夜半境涯の句も『物の姿』に己が姿を写し、『物の心』を借りて己が心を叙べるのが原点である」(後藤比奈夫)
「夜半の作品にほのめくものは、『色っぽさ』であって『エロチシズム』ではない。都会の人でなく、町の人である」(日野草城)
「大阪商人としての懐深さと町人文化と称される恐るべき教養を身につけており、表面はごく倹しく見せながら、奥の豊かさに恐しさを秘めた、関西の町人たちの実力の程を見せられる感がする。並々ならぬ捨象が夜半俳句の真髄である」(高橋治)
「自然に対しても、人間に対しても夜半の対象への優しい視線を感じる。人間を、自然を好きだからだろう」(西村麒麟)
「大阪・曽根崎に生まれ育ち、関西で言う粋人(風雅を好み、生態・人情に通じ花柳界等にも通じた人物)で「名利を求めず、終生人のなさけの機微を詠い、自然への参入に心を澄ました俳壇の聖者」と言われたが、蓋し至言であろう。生涯俳壇上の受賞が全くない俳人であった。」(「青垣」34号より)