★かたまつて薄き光の菫かな 渡辺水巴
〜昭和6年4月の作、『水巴句集』に収録。「鹿野山にて」の前書きがあり、同時作に〈九十九谷春行く径消えにけり〉がある。同9年には、九十九谷展望台に、「曲水」木更津支社の発起により句碑が建立され、その折に〈風の音は山のまぼろしちんちろりん〉〈句碑照りて明らかに死後の月夜かな〉等を詠んだ。
「水巴の代表作の一つ。句碑除幕式には、私も参列したが、何の技巧も感じない可憐な措辞で、一かたまりの菫の姿が見事に浮かび上がって来る」(山本健吉)
「対象に心理の光をすっと当てた様に見せられる俳句的方法で、この菫はいつまでも心に残る」(清水哲男)
「対象をじっと見つめ、そこから感じ取った実感で菫の本意を捉え、玄妙に響き合う。芭蕉の〈山路来て何やらゆかしすみれ草〉も念頭にあったろう」(小島健)
「こんな静謐な世界が短い言葉で詠めることに感動し、薄き光の光と言う言葉に私の全神経が吸い寄せられる」(津髙里永子)
「画家である父の影響もあって、美に鋭く感応し、かたまって咲く菫は,光が透けて、花の色は薄く感じたのだろう」(あらきみほ)
★楓林に落せし鬼の歯なるべし 高浜虚子
★手にとりてしみじみ青し蠅叩 高野素十
★追憶や今出し霧にこの寺に 星野立子
★山寺に月下の涼をほしいまま 高木晴子
★十薬も天に咲く花九十九谷 林 翔
★葛折の谷老鶯の鳴き渡り 石崎和夫
★短夜やスリッパの字の鹿野山 波多野爽波
★蜩のあまりに近し昼寝覚め 大峯あきら
★歯塚守る月日のうちの歯塚菊 山口笙堂(住職)
★森閑と墓碑絢爛と落椿 上谷昌憲
★鰐口にたよりなき網花の雨 広渡敬雄
★蕗の薹供へ先師の墓を辞す 稲田眸子(素十の墓)
【渡辺水巴】明治15(1882)年、近代日本画家渡辺省亭の長男として東京市浅草小島町に生れ、本名は義(よし)。裕福な家庭で妹つゆ女(後年俳人)と共にすごし、18歳で俳句で身を立てることを志し、終生俳句以外に職を求めなかった。同34(1901)年に内藤鳴雪に入門、同39年高浜虚子に師事し、同45年河東碧梧桐に対抗して創設された「ホトトギス」第一回雑詠欄で、飯田蛇笏、村上鬼城、前田普羅を押さえて〈櫛買へば簪がこびる夜寒かな〉が巻頭となり、名をなした。
大正2(1913)年に曲水吟社(後の曲水社)を創立。同3年には、ホトトギス雑詠欄で虚子の代選を務め、同4年には、水巴選『虚子句集』を刊行した。同5年には、主宰誌「曲水」創刊主宰、「感興の俳句は趣味の俳句であり、生命の俳句は究竟の文学である。愛と感謝と尊敬の念をもって自然に接しよ」と述べ、自身の弟子育成に努める。
その後虚子に句を見てもらったり、出入りすることもなく、微妙な関係を続けた。『水巴句集』『続水巴句集』『水巴句帖』等意欲的に上梓し、後年には「自分は内藤鳴雪の弟子」と公言した。
関東大震災で一時大阪・豊中に住むも、程なく帰京し麹町に居住。長谷川きく(桂子)と再婚し、昭和8(1933)年に生れた次女恭子が、水巴、桂子のあと「曲水」を継承した。戦時中は、日本文学報告会常任理事も務め、全国を網羅した「曲水支社」の伸張にも注力した。終戦直前に疎開した神奈川県藤沢市鵠沼で、昭和21年8月13日に腸閉塞で逝去、享年64歳。墓は浅草今戸潮江院にあり、命日は水巴忌として知られる。尚、「曲水」は、平成23年創立96年を以て終刊し、渡辺恭子は新たに「新月」を創刊し、現在は松田碧霞が主宰である。
上記の句集以外に『隈笹』『白月』『富士』、『新月』、没後編まれた『水巴句集』評論・鑑賞・随筆等を九冊収める文集に『水巴文集(上下)』がある。
「無情のものを有情にみる」が初期の顕著な特色(高浜虚子)
「人一倍潔癖で深く繊く沁み透るような清冽な感じを好み、秋桜子の飽くまでの現実的な唯美主義と対照をなす蕪村的フィクションをより推し進めた独特な唯美主義」(山本健吉)
「同じような境遇で育った松本たかしと共に都会人の洗練された生活感で、季題趣味の旧套を脱し、近代的な『我』『主観』を自覚したが、水巴の方が一貫して主観性が強く耽美的、求道的である」(中村裕)
「松本たかし同様、生粋の江戸っ子で芸術家肌故に、体質的に地方出身の虚子と反りが合わなかったのは否めないが、そこが水巴の本質であろう。大正時代の「ホトトギス」復興の立役者の一人であり、その後独立自尊で多くの門下を育てた。時流に流されない新しさをも有した潔癖な俳人と言える。」(「青垣」38号より)
★天渺々笑ひたくなりし花野かな(震災により豊中に仮寓)
★ひとすぢの秋風なりし蚊遣香
★てのひらに落花とまらぬ月夜かな
★夏の月蚕は繭にかくれけり
★ざくざくと鳴るかに近し天の川
★ふるゝものを切る隈笹や冬の山
★縁にしなふ竹はねかへし冷奴
★産着着てはやも家族や蟬涼し
★大空のしぐれ匂ふや百舌の贄
★菊人形たましひのなき匂かな
★寂莫と湯婆に足そろへけり
★箱を出て初雛のまゝ照りたまふ
★一つ籠になきがら照らす蛍かな
★紫陽花や白よりいでし浅みどり
★庭すこし踏みて元日暮れにけり
★冬山やどこまで登る郵便夫
★寒菊やつながれあるく鴨一つ
★白日は我が霊なりし落葉かな
★魂祭るものかや刻む音さやか
★妻も来よ一つ涼みの露の音
★うすめても花の匂の葛湯かな