「俳句文学館」1月5日号に、俳句カレンダー1月の短冊句2句について鑑賞文が載っていましたので紹介します。

★一滴に匂ひたちたる初硯(西山睦)

 〜(鑑賞者は西山ゆりこさん)ぽたん。水と触れ合って硯は硯らしい匂いを取り戻す。嗅覚が作者の背すじを立て直す。たちまち、肉体も空気も新年気合に包まれる。ハイスピードカメラでとらえたような作品だ。

    この硯は、作者の西山睦の父であり、かつて結社「駒草」の主宰であった 八木澤高原(こうげん)の遺品、端渓である。滑らかな逸品。

    場面によって高原と睦は「父子」「師弟」とスタンスを変えて付き合う必要があった。

    かつての睦は〈埋火独りの父に置いてきし〉と、娘目線で詠んでいるが、甘えていられる時間 に限りはある。自然の摂理で高原は他界し、陸は 先代・蓬田紀枝子を経て「駒草」を継承すること になった。この経験の中で睦にとっての高原は「師でもあった父」から 「父でもあった師」になったのだ。筆を取る姿に、本当の巣立ちを済ませた風格がある。清冽な初硯から、勝手に想像する。 


    ※西山睦さんは、当号に「新春随想」を書いておられました。その内容は、このページの下部に。

★あはあはと昼の月あり雪卸す(三村純也)

 〜(鑑賞者は西村妙子さん)掲句は昭和62年、城端別院 善徳寺二句の前書きのあるうちの一句であ る。あと一句は〈寺にして城の構への雪囲〉ともに第二句集『蜃気楼』に所収。

    大学院を卒えて富山県魚津の短大へ赴任。大阪に生まれ、東京に学び、初めての北陸暮しである。若い作者にとって目にするすべてが新鮮であったであろう。海と山がせまる大自然により大いに詩嚢を肥やされたようだ。

    雪卸しは雪国の生活では欠かせない暮しの一つである。経験のない雪卸し、雪の怖さを身をもって体験されたに違いない。そんなときでもふと目にした昼の月を「あはあは」と詩情豊かに詠いあげ若々しく口誦性のある作品となった。

    この句は平成15年、城端に第一句碑となっている。冬はすっぽり雪を冠る年もあるらしい。

西山睦さんの新春随想「丘に登れば」

    こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。「駒草」の2代目主宰に父が指名されたばっかりに、うかうかと「駒草」の発行を手伝うようになった。父、八木澤高原阿部みどり女が東京で発行した「駒草」の創刊同人だったが、会社勤めの関係から上司には山口誓子がいた。いわゆる俳句弾圧事件の最中であっても仙合にいた父はそういうこととは露知らず、一部下として上海転勤などを願い出ていたらしく、番子にとっては困った部下であったろうと想像する。もし上海転勤が実現していたら私は生まれていなかったかも知れない。

    みどり女に私がはじめて出会ったのは、三、四歳の頃、東京から仙台に疎開してそのまま仙台に住んでいたみどり女の元に母が原稿を届けに行ったときである。机の上にラジオが据えてあり、その時からおばあさんという印象であった。母は恐れ多くて顔を上げられないほど恐縮しており、当然その価値観を私も受け継ぎ師は崇めるものという気持は変わらない。お菓子がわりに薬を包む紙に麦こがしを入れてもらったのが忘れられない。

    かつて〈俳縁は血縁よりも濃し〉と言った人がいたが、昔の俳句の縁は濃密だった。父が転勤で横浜に住むと、みどり女やお付きの方のお宿をすることがあった。その折、みどり女にご挨拶することはあったが、それ以上の興味は持たず、両親が句会の後にとても興奮していたのを思い出す。         

    その後「駒草」を自宅で見た記憶もなく、もちろん自宅に配達されていたのだが興味がないので目に入らないだけなのだが、みどり女に取り込まれたのは、師が92歳の駒草大会での挨拶であった。蛇笏賞を女性ではじめて受賞した翌年であったろうか。私はテープ起こしを命ぜられた。みどり女の話し言葉を削ったり足したりすることなく 文字に起こすことが出来た。これは驚くべきことであった。

    明晰な話に、生意気にもみどり女の力をはじめて知ったのである。それからはみどり女マジックにかかったように、俳句の「は」の字も知らないママ友を誘って「青空句会」を立ち上げたりした。 

    高原は、「遠富士日記」を誌に書いた。晴れた日には自宅近くの尾根道から富士山がよく見えた。新年には


★山歩ききてわが御用始かな  高原 


と詠み、歩いて出合いを求め、足で句を詠むことを無言で教えた。

    3代目主宰の蓬田紀枝子は感性の赴くままの「切れ」を中心に据えた。これは難しく、「天性」がものをいう。天性には足りなかったが、麦こがしを頂いた縁で私は4代目主宰となった。

    俳句を始めて五十年弱、俳句に支えられ生かされていると、実感するこの頃である。わが家からも近くの丘に登れば遠富士が見える。折に触れて父が慰めとした富士に私も心を洗ってもらっている。そして裾野に眠る両親を感じることができる。

    今年も新たな一歩を大胆に踏み出そうとしている私がいる。


※私にとって、阿部みどり女さんは「続けることも才能」という言葉で、俳句を始めてしばらくした頃の私を強く支えてくれた方。そういう意味で上の記事は大変興味深いものでした。ついでながら、阿部みどり女さんは上の言葉を言われた時に「年をとることは芸術」とも言われました。


※【西山ゆりこさん】昭和52年神奈川県に生まれる。日本女子体育短期大学舞踊専攻卒業。平成15年「駒草」入会、西山睦に師事。俳人協会会員(句集 ゴールデンウィーク』より)↓

※【西村妙子さん】昭和19年11月香川県小豆島生まれ。平成8年「あじろ」主宰角光雄先生の俳句教室に入会。平成12年5月「山茶花」入会。三村純也先生に師事。現在、「山茶花」同人、俳人協会会員(『オリーブの丘 西村妙子句集 ふらんす堂精鋭俳句叢書』より)

※【西山睦さん】昭和21年生宮城県多賀城市生まれ。昭和53年「駒草」に入会。阿部みどり女に師事。平成15年 「駒草」主宰を蓬田紀枝子より継承。平成16年より河北俳壇選者。俳人協会理事。日本文藝家協会会員。句集『埋火』『火珠』『春火桶』など。父は二代目「駒草」主宰八木澤高原。(俳人協会HPより)