『原爆俳句』を読む(14)第10回大会(昭和38年)直前に長崎新聞に掲載された隈治人氏の文章。

原爆忌俳句大会を迎える 隈 治人


第18回目の原爆記念日が近まった。昨年来、問題の多い原水爆禁止大会は第9回、そして長崎原爆忌俳句大会は第10回を迎える。俳句大会は、昭和29年長崎 「石」俳句会の主唱ではじめられた。その翌年『句集長崎」が刊行されて全国に大きな反響をよんだ。いまにして往時を思えば深い感懐なきを得ない。 せんじつ角川書店の「俳句」編集長塚崎良雄氏から書簡が届き、歳時記に広島忌があるが長崎忌が収載されていない、長崎忌という季語は広島忌同様立派に生きると思うが、該当のすぐれた作品があったら紹介してもらえないかという原稿の依頼があり、僕はその依頼に応じた。

「俳句」9月号に長崎忌という題で発表される。僕自身の作として昭和32年に


▪️流れる万灯歩むごとくに長崎忌

▪️万灯ながす夜の雲虹のいろ残る

▪️月幽く遺壁を照らす万の炬火

▪️炬火ゆ立つけむりが宙に火蛾群るる


一連の五句があり「かびれ」11号に発表した。 このとき第4句の前に浦上忌という言葉もつかった。僕としては長崎忌、浦上忌という言葉をつかったのはそれが最初だが。手元の資料をいろいろ調べて見ても大体そのあたりからぼつぼつ同じ季語をつかった作品が散見されるようである。


原爆俳句の名作としては数々のものがあるがそのうち松尾あつゆき下村ひろし柳原天風子の三氏の作品が最も高く評価されていることは周知の事実である。


松尾あつゆき氏の被爆当時の連作23句は


▪️なにもかもなくした年に四枚の爆死証明

を頂点として

▪️すべなし地に置けば子にむらがる蝿

▪️みたりの骨をひとつに焼跡からひろうた壷

▪️くりかえし米の配給のことこれが遺言か

▪️降伏のみことのり妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ


などいまなおなまなましく涙を誘われる悲傷の叙事詩である。

下村ひろし氏の被爆当時の作が「俳句」に発表されたのは昭和28年で「原爆長 崎」と題する35句の大作だった。久しく作者の胸中にみなぎっていたものがほとばしり出たような燃焼度の高い名作ぞろいであった。


▪️住みつくか瓦礫の中に蚊帳吊りて

▪️燃ゆべきは燃え果てにけり地に秋風 

▪️夜目にさへ焦土の広さ星る

▪️原爆症診て疲れ濃き秋の暮 

▪️凍焦土種火のごとく家灯る

▪️日向寒焦土の民ら何蒔くや


など下村氏らしい折目正しい格調の高さのなかに、長崎市民として、また医師として原爆に対する当時の切々たる感情がぎっしりとこめられている。 

柳原天風子氏は


▪️蝉篭に蝉の眼のあり原爆忌 

▪️原爆忌過ぐ蝉篭に蝉充たし


などを昭和31年に発表し、彼一流の風刺をもって原爆戦争の残忍さをリアルにえぐった。人間自体の残忍さと戦争の残忍さとを合わせ具象したこの二句は凶悪戦争を防ぐための全人類的な仕事の困難さを切実に訴えてくるかのようである。宿命的な人間の業(ごう)が意識して率直にはき出されているのである。ここには平和を叫び反戦をわめくヒステリックな騒々しさもスナップショットの観念的な文字化という俳句的な脆弱さもない。「静かなる重さ」をもつ戦後の原爆忌俳句の典型をここに見ることができるだろう。

広島忌といい長崎忌といい、俳句の季語として生きる資格はともに充分にあるだろうが、原爆忌と同様いづれも「修忌」という行事の性格を年々つよくゆく。歳月の経過は忘却を誘う。原爆というテーマがいつの間にか行事をテーマとするようになる。


▪️原爆祭飛ぶもの飛ばせ鳩といわず 天風子


の「祭」には種々の異論も出ようが、それが壮大な祭であって悪いはずはないのだ。ただその壮大さの内容が見せかけのリゴリズム (厳粛主義)だけであってはならないということだろう。こころしずかに歳月という忘却のベールをはいで昭和20年のかの日を思い起こし、かみしめることは、最も大切なことのひとつと思われる。第10回大会は右のような意味のしずかな祈りに似た会合でありたいと思う。作品にしても、その静けさのなかにメラメラと燃えるような人間の「生への願望と執着」がテーマを通じて確保されていなければなるまい。(昭和38年8月5日 長崎新聞)