『俳句四季』7月号を読む(5)「俳句へのまなざし VOL.7」には大西 朋(とも)さんが各氏の近作21句をその句評とともに紹介してくれていました。

※大西 朋さん=昭和47年生まれ。平成17年宇佐美魚目に師事。平成18年晨入会。平成22年鷹入会、小川軽舟に師事。平成28年第四回星野立子新人賞受賞。

▪️白日の芯に触れたる海芋かな 二ノ宮一雄(俳句四季」2年5月号) まっすぐ芯の通ったかのようなスラリと白く美しい海芋。そんな海芋を見ていると決して触れることのできない「白日の芯」に触れたような錯覚に陥る。


▪️春の日はおほまかがよし花時計  木本隆行(「俳句四季」2年5月号)

花時計が刻む時は細かな分までは分からないが、そんなことが気にならないのは春の日の心地よい時間の中にいるから。「おほまかがよし」が大らかでよい。


▪️夏めくや湯呑にのみて水の味 藤永貴之(「俳句四季」2年5月号)

何気なくそこに置かれてあった湯呑で飲んだ水。その水にカルキ臭さか何かを感じたのだろう。季節の変わり目をふとしたことで気づくという一場面がさり気なく、そして湯呑が生活感を持って描かれている。


▪️風呂のお湯の汚れっぷりも花のころ 鎌倉佐弓(「俳句四季」2年5月号)

一人住まいであればこう感じることは少ないだろう。何人かで生活を共にして交替で入る湯船。そう言えばここ最近みんな頻繁に風呂入り、湯の汚れがはやくなっているのは 「花のころ」だから。「汚れっぷり」という表現にはそんな風呂を洗う作者の前向きな明るさを感じて頼もしい。きっとスポンジを泡立ててごしごしと盛大に洗うのだろう。


▪️菖蒲湯や万事からだと相談す 高橋将夫(「俳句四季」2年5月号)

どのタイミングで「万事からだと相談す」 日が来るのかはわからないが、こればかりは避けることのできない現実。しかし菖蒲湯に浸かればまた明日から頑張れそうだ。


▪️啓蟄のたくさん絞るマヨネーズ 西池冬扇(「俳句四季」2年5月号)

マヨネーズをたくさん絞るというのは私の場合ポテトサラダを作るとき。こんなに入れたらカロリーが、と一瞬頭をよぎるがけちけちしていては美味しくない。作者も少しの罪悪感を感じ、きっとマヨネーズが好きでたくさん絞り出したのだろう。今日は啓蟄。これからエネルギーに満ちてくる日々に備えなければならないし。ま、いっか。


▪️くもの糸ひひらぎの葉を転(くる)めかし 正木ゆう子(『俳句」2年5月号)

柊の鋭い棘となった葉先が蜘蛛の糸に引っ掛かってくるくると回っている。「転めかし」という下五によってまるで蜘蛛の糸に意思があって柊の葉を操っているかのよう。細い糸と小さな棘の先の生みだす不思議な世界。


▪️立春や鏡のやうな椿の葉 岩淵喜代子( 「俳句四季」2年5月号)

椿の葉ほど見事につやつやと光る葉はないだろう。邪気を払うという椿の葉。立春のめでたさと相まって「鏡のやうな」とは正にその通りである。


▪️暮靄とも潮ぐもりとも遠干潟 能村研三(俳句」2年5月号)

「雨上る気配のしたる遠干潟」という句が佐藤鬼房にもある。ちょうど干潟が出る頃は、生暖かな蒸気に包まれるような頃。遠くまで広がる暮れ時の干潟を、どこか懐かしさを感じさせつつ、「暮靄とも潮ぐもりとも」とその気配を敏感に捉えている。


▪️のどけしや午を狭間の待ち時間 秋尾 敏 (俳句」2年5月号)

「常磐線全線再開」という作品から。故にこの場合、場面としては電車の待ち時間と思われる。ちょうど午頃には電車の本数が少なく なり、すぐに電車が来る気配もない。「のどけしや」には全線開通の喜びと電車を待つのも苦にはならない日和のよさが伺える。


▪️うすあかく春の海より戻りけり 有澤榠樝かりん(「俳句」2年5月号)

春の海を見て戻れば肌がうっすら「うすあかく」なっていた。もう日焼けに注意しなくてはいけない日差しが出ている。また春の海の気持ちよさに夕暮れ時までいて、夕日にうっすら赤く染まっているともとれる。「春の海」だからこそ生きてくる「うすあかく」という措辞である。


▪️平凡な木に春の鳥やつてくる 中田尚子(俳句」2年5月号)

庭園にあるような名木ではなく私たちの近辺にある「平凡な木」。そんな木々に変わりなくやってくる「春の鳥」。日常にこそ豊かさがあると思わせてくれる。


▪️古傷の今もやはらか鳥雲に 高室有子(「俳句」2年5月号)

自分の身にある古傷はいつまでも消えずに触れれば柔らかく残っている。この傷はいつの物だっただろうか。覚えているけれどいつもは忘れていること。鳥が帰る頃とは、ふとそんなことを思い出す季節なのかも知れない。


▪️ぐっすりと眠りし朝の氷柱かな 松本てふこ(「俳句」2年5月号)

ぐっすりと眠った朝。そんな朝一番に軒先から目にするのが氷柱とは清々しいばかり。北国に住む人にとってはいつもの景色かもしれないが、そうでないものにとってはやはり見飽きない景。


▪️桃摑む指に少しの不安あり 花井音季(「俳旬」2年5月)

果物を摑むときに一番緊張するのは何か。そう、桃が触れてみるまで硬いか柔らかいかわからず不安になる。指先に神経を集中して。そっと触れるという恍惚感もそこはかとなく漂う。


▪️流氷のため青空はあを尽す 櫂未知子 (「俳壇」2年5月号)

流氷の白さに適うには青空はもっとも青空らしくなければならない。それ以外の色は許されない神々しい世界。


▪️切株は何も語らず春日かな 辻 恵美子(「俳壇」2年5月号)

どのくらい前からその切株はそこにあるのだろう。切り倒されて切株となってしまった木。ただただ春の日が暖かいばかりである。


▪️覚めさうにゐて海苔粗朶のまぶしい日 鴇田智哉(「俳壇」2年5月号)

目の前に広がるまぶしい海苔粗朶。「覚めさうにゐて」とは春の海辺にきて、そのまぶしさに触れ目覚めそうだという繊細な把握。


▪️雨やむを待てず鳴きだす乱鶯よ 星野恒彦(「WEP俳句通信」11月号)

雨も風も鶯には関係のないこと。狂おしいばかりの鶯の声が雨の音をかき消す。


▪️どの雲もおのれ汚さず青芒 涼野海音(俳句界」2年5月号)

「おのれ汚さず」という擬人化に作者自身の理想のようなものが込められているようにも思われる。その雲の下に靡く青芒もまたおのれ汚さぬ青さである。


▪️蟻ひとつぶ靴降りてくるおりてくる 山本一葉(「俳句界」2年5月号)

靴の上に一匹の蟻。「降りてくるおりてくる」というリフレインが作者のまっすぐなまなざしを存分に伝えている。