第30代 敏達天皇の皇居・百済大井宮跡 | かわの字ブログ 『山あり谷ありⅡ』 Powered by Ameba

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人生はフリースタイル。孤独でも、忍耐。
笑いたがる人にはキスを!
そしていつだって、I say yes!
I'll be there!

大神神社を参拝したあと。

 

最寄りの三輪駅から、またJR万葉まほろば線に乗車。

そして、桜井のひとつとなりにある この香久山駅に到着しました。

 

この“香久山”とか、またひとつとなりの“畝傍(うねび)”といった地名も、なにげに初代 神武天皇に関るものなんだよね…

 

香久山駅から歩いて15分。

こちらの、春日神社というスポットに到着しました。

 

この神社は、第30代 敏達天皇の皇居・百済大井宮跡ではないかといわれてる場所です。

 

それでは、第30代 敏達天皇についての動画をお送りします↓

 

[第30代 敏達天皇]

30代 敏達天皇

沼名倉太珠敷命(ぬなくらの ふとたましきの みこと

在位:西暦572年~西暦585年

 

[即位]

第29代 欽明天皇石姫皇女(第28代 宣化天皇皇女)との間の皇子。父方・母方の双方からそれぞれ継体天皇仁賢天皇雄略天皇の血を引いている。

 

同母兄・箭田珠勝大兄皇子(やたの たまかつの おおえの みこ)が西暦552年4月に薨去したことを受け、西暦554年2月に皇太子となる。

 

異母の兄弟姉妹で天皇に就任した人物としては、

第31代 用明天皇聖徳太子のお父さん)

第32代 崇峻天皇(暗殺された陛下)

第33代 推古天皇(腹違いの兄の敏達天皇と夫婦)

がいます。

 

この世代は兄弟で天皇就任がつづいたため、聖徳太子を含む この方たちの皇子世代が天皇になれませんでした。

 

西暦571年5月欽明天皇が崩御したことを受け、西暦572年4月即位。

 

西暦575年2月に息長真手王という皇族の皇女の広姫を皇后としましたが、同年11月に崩御。翌576年3月、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女(第33代 推古天皇)を改めて皇后に立てました。

 

しかし、敏達天皇は西暦571年に額田部皇女を既に妃としており、皇女であるにもかかわらず、なぜそうでない広姫が当初皇后となったのかは不明です。

 

[政治体制]

大臣 蘇我馬子

大連 物部守屋

 

[外交・経済]

欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られませんでした。

 

また同時に、欽明天皇の遺言には「新羅を討て」という内容もあったが、新羅とも通交し、任那調(物品の税)を受け取っていたと記されています。

 

さらに、世界最古の企業とされる金剛組が西暦578年に宮大工の集団として発足したと伝わっています。

(21世紀の現在も社寺建築会社として存在してます!→ 金剛組

 

[仏教政策]

敏達天皇廃仏派寄りであり、廃仏派物部守屋中臣氏が勢いづき、それに崇仏派蘇我馬子が対立するという構図になっていきました。(← 最終決戦への伏線です)

 

崇仏派蘇我馬子が寺を建て、仏を祀ったときに ちょうど疫病が発生したため、西暦585年に物部守屋敏達天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせました。

 

同年の8月15日、敏達天皇は病が重くなり崩御。

仏教を巡る争いは、更に次の世代に持ち越されました。

 

皇太子がいなかったため、崩御の翌月の9月5日に異母兄弟の大兄皇子が、第31代 用明天皇として即位しました。

(つづく)