コロナにかかってしまった看護師🐈です。
家族感染はどうがんばっても防げなかったなあ。
数日頑張って仕事をしておりました。後遺症は嗅覚障害と鼻声、倦怠感が少々。
一番つらかったのは嗅覚障害で、何を食べても味がしなかったことでした。私の周辺の経験者も同様の事を言っていました。食べた気がしないし、食思も落ちますが、体重は温存しております![]()
コロナですっかり日常生活感がブログに出ていましたね。
本当は今回のような看護師ならではというか、もうすぐ定年くらいの老看護師が医療・看護・介護について考えていることを発信したかったのです。
私的にはやっと今回が第一回みたいな感じがいたします![]()
人の「死」についての私見なので、苦手な方はブラウザバックをお願いいたします。
看護師から見た、人の「生死」について興味がある方は
どうぞ覗いていってください。
いきなり「死」とか重いテーマに感じる方もいらっしゃると思いますが、私は死は身近なものであり、特別ではないという考えをもっています。
もちろん不浄なことでも、怖い事でもない。怪談は怖い時がありますが、生きている人間の方が怖いです![]()
ある施設での経験です。100歳オーバーの方が、夜勤時に急死されました。
大往生です。
しかし現状の法律では変死や事件性がないかどうしても検証が必要なので、警察が施設に来ます。在宅でも同じです。お家で急に人が死んだら警察の事情聴取があります。まず、この点を御存じない方がいらっしゃると思うので、はっきり書きましたが、お医者さんの管理下でないと人は簡単に死ねないのです。
看護師や介護士のような専門家でも、ご家族でも例外ではありません。夜勤看護師が私一人だったので、施設医に電話で報告して指示を仰ぎ、「午前3時半という時間なので、翌朝医師の出勤後に死亡診断書を書く。それまで診察室へ安置するように」と言われ、介護士と協働してそのように処置しました。
深夜帯なので、ご家族はゆっくりとお別れの時間を持ち、その後の段取りを練ることが出来ました。もちろん私は通常業務をしながら、家族対応、その後の段どりの説明をしっかりとして、警察からみえた刑事さんからの事情聴取に応じました。
朝がきて先生の書類が整った後、葬儀社の立派なお車でその方は久しぶりのご自宅へ帰られました。
この段取りがうまくいかないと「変死」として扱われて、ブルーシートにくるまれて、警察のシルバーのバンの後部(車のシートの無い工事資材を載せるような床の上)にそのまま押し込まれます。所轄の警察署についたら、駐車場の地面(コンクリートの上ですよ!?)に置かれて対応が決まるまでそのまま放置です。これも一般の方はあまりご存知ではないかもですね。
大往生で事件性もないので、刑事さんは「お忙しい中ありがとうございました」と、ご家族も「大変お世話になりました」と帰られました。
それぞれ平穏無事に終了いたしました。
ところが、数日後、ご遺体を数時間安置した診察室の片隅に盛り塩が置かれていました。
え~~~![]()
よりにもよって盛り塩~~?![]()
診察室の中に薬庫があって、臨時薬を取りに行くとき怖かったんだって![]()
死生観にはいろいろあるのだなあと思った次第です。
100歳オーバーの方は化けて出たりしないでしょう?
邪気を払おうとしました?同僚の看護師にそういう考えの人がいてチョットがっかりだった。
ずいぶん失礼だな。うん。失礼だ。![]()
「死」は誰にでも訪れる自然なことだ。長い人生お疲れ様でした。とねぎらって、身支度を心を込めて整えて送り出したのにな。
でも、たとえ看護師だとしても死生観は様々なのだ。人それぞれの考え方があるのは当たり前のことだ。
そもそも死生観は専門家でなくても看護師でなくても持っている。「死」という概念を知ることは他者のそれを見て、体験して感じ取ってつちかっていくしか学ぶすべがない。
私はたまたま、たくさんのひとの、患者さんの「死」を見て感じ取って、悩んだ挙句「死」を学んだ。死生学を学び、専門医のフォーラムに参加したり、本を読んだり文章を書いて「私の死生学」を積み木を積むように育ててきたのだ。でもまだまだ勉強中![]()
まずは自分の死はどう迎えたいかを考える。
できるだけ自然な死を迎えたいな。ガンなら、医療保険の範囲内なら頑張れるかな。痛みやかゆみはできるだけとってほしいし、苦痛をとりながらも意識ははっきりしていたいな。夫や子や孫に一言ずつお手紙を書いて。残された家族が困らないように保険や重要書類の説明書きも必要。
嚥下機能が落ちてきたら無理はせず、木が枯れるように逝きたい。
胃ろう、人工呼吸器、人工肛門、気切、人工透析、IVHは一時的でないものはお断りしよう。最期はできるだけ自宅でギリギリまで生活をして、介護が必要になったら遠くていいから経済的負担を家族にかけないような施設に入居を望む。みんなに看取られなくてもいいから、時々は思い出してほしいな。・・私のように考える人は少なくはないのではないだろうか。
自分の考える死生観や最期の様子から、他者はどう考えるのかを想像していく。
死が恐ろしい人は考えたくもないだろうし、生きるために私財をなげうってでも治療法を求めるだろう。その人の考えた人生の締めくくりに正解や不正解はない。考えた通りで、満足して頂ければいい。ただ、往々にしてご本人の希望とご家族の希望がずれることはあるので元気なうちにしっかりと話し合っておくといい。
かつての同僚は私と同い年だったが、もう彼岸へ渡ってしまった。
彼女は病と闘って、ご主人と共に人生を充実させて、旅行へ行き、美味しいものを食べ、生き切った。最期の言葉は「私、頑張ったよね」だったそうだ。
がんばりすぎくらいだよ。
彼女は人生の3分の1くらい闘病していたが、私と仕事も一緒にしたし、アルバムの彼女は旅先の美味しいものを前にして微笑んでいた。
ちょっと逝くのが早かったけど、幸せに生きた。
ご主人は「まだ彼女にゾッコンなんだ」って![]()
ごちそうさま![]()
「死」を知ることは「生きること」を知ることだ、とよく言われるが、その通りだと思う。一人一人に想いがあり、生き方の先に死に方がある。
私はこれからもその人とその人の最期を見つめて、寄り添って、
その家族も丸ごと、支援していく。
もちろん自分の生き方や最期も迎え方もね。
「お母さん、死生学とかエラそうなこと言ってたけど、最期はあがいてたなあ、死にたくない~
って。」って子供たちに言われるかも![]()
それもいいですね![]()
