大垣夜行の思い出 | 七色の風

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AKB48の岡田奈々と岩立沙穂、村山彩希の記事を中心に、
その時々で感じたことを本音で語ります。
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鈍行列車に乗って遠くに行きたい。そんな衝動にかられることがある。そして、いつも思い出すのははるか昔の東京~大垣間の夜行列車、通称『大垣夜行』である。


初めて乗ったのは一眼レフを手に入れた中学2年生の夏だったと思う。愛知県在住だから上りの東京行きに乗るわけだが、当時はM車が153系、T車が165系という混結編成だった。確か12両で、4,5号車がグリーン車。私がいつもグリーン車を利用していたのはリッチだったからではなく、安かったからだ。700円ぐらい出せば、劇的に居住性がアップするのだ。さらに細かいことを言うと、この2両のグリーン車は仕様が違っていて、1両は純粋な急行型でシートピッチが広く、フットレストも完備されていたが、もう1両は近郊型からの改造車でハズレだった。もちろん私は常にいい方に乗った。


この列車で忘れてはならないのが静岡の駅弁。到着に合わせて売りにくる。確か0:22着の0:58発で、弁当には『午前0時調製』と書かれている。ただの幕の内弁当なのだが、さわらの焼き物やわさび漬が妙においしくて、これに合わせて腹の具合を調整していた。


沼津では御殿場線の旧型国電の姿を見ることができた。今にして思えば、ここで降りておけよ、と思うが、当時の私にそこまでの発想はなかった。


東京着4:40、すぐに階段をダッシュして、4:42発の京浜東北に乗らなければならない。後にはいろいろな撮影地を知ることになるのだが、中学生時代の撮影地は鶯谷。大人になると鶯谷というのはアレな街だが、この頃は関係なかった。


カメラを構えると、次々と夜行列車がやってくる。ゴハチの急行列車から寝台特急まで、息つく暇もない。ふと振り返ると、181ボンネットの『とき』だったりする。


中3になると東京行きはさらに加速し、高校生の頃には蓮田やそれ以北の撮影地に通うようになった。なにしろ地元の公立高校だから何をやっていても楽勝である。ある時、学割証を請求すると『年間何枚までしか出せない』と言われたので、職員室に怒鳴り込んで『国鉄の旅客営業規則を見てもそんな記述はない』と言い切って、それ以降、私に文句を言う者はいなくなった。


こんな感じで年に10回以上も大垣夜行を使っていたが、大学生になって東京に住むようになると帰省時も使わなくなった。新幹線で往復するようになり、鉄道趣味からも遠のいていった。



そしていつしか、この列車は特急型車両の『ムーンライトながら』へと変わり、さらには季節列車になってしまった。我が青春の大垣夜行は、赤いテールランプとともに去っていった…。