(”コーヒ・ブレイク”小話:(電話・はがき・SNS)”での情報です)

 

 〇甘南備/神南(かんなん、かんなび、かんなみ)

 1.甘南(かんなん)I さん/大阪・東大阪市

 河内長野出身 (親の代に大阪)/ 以前は“カンナミ”だったらしい / 家伝所書・系図なし / 河内長野地名“甘南備”あり関係あるかも? / 以前、岐阜出張時、甘南備寺あり関係あるかも? /近畿 4家皆親戚(全国で5家族のみ) 

 

2.甘南備(かんなび)さん/大阪・枚方市)

 福島・いわき市出身 (父親:福島 ⇒ 東京 ⇒ 枚方へ引越し) /福島でも“甘南備”途絶えてきたのでは(父親も“甘南備”に養子) /富田林市「甘南備寺」住職の話: 家紋(流れ菊水?)がめずらしい→楠木正成の奥方の家紋( しかし奥方の旧名とは一致しない) → 家来として拝命したのでは /関西では3家(兄弟)あるはず。   (おわり)

○西古佐と諏訪神社       ・・・ (播磨屋さんブログより)

 現在、篠山城下町の西の外れ岡屋に諏訪神社があり、大昔、信濃の諏訪大社に参った古佐の何某というものについてきた女の子が川に飛び込み鎮座したという昔話が語り継がれている。所で諏訪神社の神紋は「梶葉」である。西古佐にあった諏訪神社の神紋を知る術もないが、西古佐を含む篠山西部に多い「河南」さん「一文字に違い梶葉」紋を用いる家が多い。また真偽は分からないが信濃に関わりがある名字だという説もあるらしい。昔話に登場する古佐の何某は、ひょっとして河南家の祖先の一人だったのかも?

 ところで岡屋の諏訪神社の近くにはミシャカ(あるいはミサカ)山が見当たらない。おそらく、鎮座は西古佐の諏訪社の方が古く、昔話も古佐の諏訪神社の成り立ちを語ったものと思われるのだ。

 また西古佐諏訪神社跡の北すぐのところを篠山川が流れ、いまは治水工事が行われてユッタリと流れているが、明治のころまで淵などがある難所だったそうだ。なんとなく、諏訪の神様が飛び込んで鎮座されたという昔話にふさわしいところだったような・・・。

 篠山は兵庫県下で2位の大きさの前方後円墳「雲部車塚古墳」を筆頭に数多くの古墳が残っている。むかし篠山盆地は湿地帯(太古は湖だったという)であった。篠山西部に位置する西古佐は湿地帯の外縁部にあたり、古代より人々が暮らしやすい所だったのだろう。諏訪神社が祀られていたということは、諏訪族にゆかりの人々が開発した土地だったのだろうか。  (おわり)

〇祭神の分霊をお迎えした伝説

  大昔のあるとき、古佐(丹南町)の与左九朗という者が信州の諏訪大社にお参りしての帰途、丹波に行くという娘さんと道連れになった。ついに、吹(丹南町)の雲岡山付近まで帰ってきたので、「あんたは、一体どこまで行くのか」と尋ねると娘は身を翻して、大川の淵に飛び込んでしまった。与左九朗が驚いて助けようとすると、娘の姿は大蛇となって「我は諏訪明神なり、五穀豊穣、安産さそう」といい、岡屋の山を七巻半して、この地に鎮まられたとのことである。富の山とは、祭神・刀売神(とめのかみ)からで、飛の山・刀美の山ともいう。

 〇丹波篠山・西岡屋/諏訪神社

  天平勝宝元年(749)、信濃国の諏訪神社の分霊を勧請し、往古より神木(大杉)を神南備として祭ってきたが、明治39年に社殿が建立された(兵庫県神社庁)。通称三四郎稲荷神社と呼ばれ境外に社がある。江戸時代に江戸での相撲に活躍した8名の力士の中の「飛の山三四郎」が当神社の使いであったという伝説から、「負け嫌い稲荷神社」として信仰されている。   (おわり)