『歴史の回想』64“沼田藩領天和元年一揆”「沼田藩領天和元年一揆」1681年(天和元年)上野国沼田藩領で起きた一揆。同年、江戸両国橋用、用材を請け負った藩主真田信利が期限内未納入を理由に改易された。原因は利根郡月夜野村の茂左衛門が領主の苛政を将軍綱吉に直訴したためと思われる。直訴状の写しが各地に流布している。松代と上田を支配した真田信之が1648年(万治元)死去すると、松代城主に果たせなかった信利が松代から自立し、領主権力化を図り、家臣団整理して表高3万石を14石にした石高制検地、年貢徴収法の強化などの藩政改革を進めた。領民の負担は増加し、前年度は凶作に、4割の領民は飢えに苦しむとまで言われた。百姓は疲弊し一揆が起こったとされている。藩主の真田の改易の理由は、その経緯は、延宝8年(1680)信直は両国橋改修の用材の調達を、木材商大和屋から請け負った。しかし、折からの台風に利根川、片品川が氾濫して楊愛が流失し、翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに長年の領民の怒りが杉本茂左衛門の直訴と言う形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅延の責めが問われ、改易された。信直は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男は武藤源三郎信秋は郡上藩遠藤常春に、更に三男栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石に家にお預けとなった。