「歴史の回想」25 ”高僧伝・蘭渓道隆(1213~1278)“蘭渓の出自”

 鎌倉時代の渡来僧、法号は道隆、道号は欄渓、宋国西蜀群生まれ、俗姓は冉氏、十三歳で成都で大慈寺に入寺し僧童となり、剃髪後遊学に江南の禅刹に参禅し、無準、痴絶などに参じ、平江府の陽山尊相禅寺の無明に参じ、ついに堂奥を極めて印可された。

 後に明州慶元府の天童景徳禅寺にあって日本が仏教が盛んなこと知り(また逆に日本の禅が振るわないこと知って禅がを広めるために渡来した説)、密かに日本渡航の機会を懐き、還元四年(一二四六)門弟を引き連れ、交易船に乗船し博多に着岸した。 日本に着き博多は円覚寺に受持した、時に三十四歳になっていた。やがて京都に向かった。京都は涌泉寺の月翁を頼って上洛、涌泉寺の来迎院に止宿したが、来迎院の智鏡は入宋し面識があった。 

智鏡の勧めで鎌倉に向かい寿福寺に入った。北条時頼の請われ常楽寺に入寺、その五年後、建長興国禅寺を開山となった。

弘長年間、招きにより京都建仁寺に移った。時栄西の五〇回忌に当たった。建仁寺に三年いてまた鎌倉に帰った。門弟の讒言(告口に遭って)甲州に移り、三年後鎌倉に戻った。再び讒言に遭い甲州に赴いた。

◆讒言は文永年間に元の世祖の使節が来朝し朝貢を求めると、蘭渓は蒙古の密使と疑惑を受け甲州東光寺に配流となり、再び鎌倉に戻り寿福寺に移り、その後また疑惑で甲州と不運な時期に廻りあったものである。

 門弟には優れた禅僧が宋より同航した、その功績で執権から大覚禅師の諡号が贈られ、蘭渓の弟子から多くの影響を受けた高僧を輩出し、大覚派としてその後の臨済宗の流派に影響を残した。

鎌倉に戻った蘭渓に時頼は、後の円覚寺の地に蘭渓に一宇を建立しようとしたが、定まらないうちに、弘安元年に六十六歳で入寂した。

“蘭渓の没後”

 鎌倉幕府の執権北条時頼が蘭渓を開山として、年号を寺号とした。山号は地名の巨福呂(子袋)からとって、巨福山建長寺として建立、建長寺の本尊は地蔵菩薩である。巨福呂は処刑場だった。

 ここで済田左衛門が斬罪に処せられようとしたが、刀が折れて斬れなかったという。済田の髪の中には地蔵尊が入っていた御蔭だったという。済田は赦免され、建長寺の開山の時に丈六の地蔵尊は作り、その頭に一寸八分の地蔵尊を納めたという。開山後、蘭渓の門系が大覚派と無学祖元の仏光派と競って住持し、寺風は盛んになっていったという。

 永仁元年(1293)の震災で堂宇が焼失し、その後再建された。鎌倉幕府将軍家の祈願所となっていたが、延慶三年(1300)に北条貞時は朝廷に返上し、定額寺になり、至徳三年(1386)に足利義満が鎌倉五山を定めた時に、その第一位となった。その後たびたび失火、戦火で焼失北条家は境内の課役免除を施した。

 天正十九年(1590)豊臣秀吉は小田原攻めの時には、寺域に軍勢を乱入するのを禁止、寺領、諸役免除の朱印を寄進をした。

 家康も建長寺を加護し塔頭の再建され、同島は四十九院を数え、七伽藍を整え、多くの文化財と禅伝統を伝えている。

”臨済宗建長寺派本山・建長寺

所在地・鎌倉市市山山ノ内・本尊・儕田地蔵・

建長寺は鎌倉五山の第一位に位する。建長五年(1253)後深草天皇の勅で北条時頼が国の興隆と北条家の菩提のために中国の名僧と言われた、蘭渓を招き建立した。当時は七伽藍に四十九院の堂塔を備えた天下の禅林であった。

度重なる火災による焼失で往時の様子を見ることができない。現在の伽藍は江戸時代以降、将軍家の寄進によるものである。建長寺はわが国初の本格的禅道場を開き、往時は千人の雲水が修業をしていたという。創建当時は、中国は宋様式の禅林伽藍で主要伽藍の建物が一列に並ぶ荘厳なものであったという。

江戸時代には数度の火災に、有名な沢庵和尚の尽力によって再建、復興し、現在の主要な建造物、塔頭十余院を有する壮観を残している。