酒井忠清(1624~1681)江戸時代前期の譜代大名。老中から大老になった。上野厩橋藩第4代藩主。雅楽頭系酒井宗家4代。家綱の治世に大老を務める。三河以来の譜代大名酒井氏で家康・秀忠・家光と三代に渡って仕えた酒井忠世の孫にあたる。寛永元年(1624)10月、酒井忠行の嫡男として酒井家江戸屋敷に生まれる。その後、江戸屋敷で育ったという。寛永7年(1630)将軍家光が酒井家を訪れ忠清が初お目見えし金馬代を献上し、家光から来国光の脇差を与えられている。将軍家光が酒井家に渡御することは将軍家と信頼関係の深さを表す。寛永13年(1636)に3月、祖父の忠世が忠世が逝去、11月、父の忠行が死去し、相次ぐ近親者の死去に12歳にして藩主を継がなければならなかった。寛永14年(1637)領地12万2500石の内上厩橋藩10万石の相続が認められ、弟忠能に上野伊勢崎藩に分地された。時に忠清13歳であった。翌年には従5位下、河内守に任じられ、父に忠行が務めていた雅楽頭家嫡流の奏者番を命じられた。その後、武家故実を習得し、殿中儀礼を学び諸役を務めることになる。この年、初めて弟と共に初国入りを果たしている。同年に土井利勝と酒井忠勝が大事の祈りの登城を命じられる。慶安4年(1651)4月に家光が死去し、家綱が将軍職の宣下を受ける。大老酒井忠勝、老中松平信綱に後見人保科正行の布陣で将軍家綱の政権が成立した。家光の死後西の丸老中が本丸老中に吸収され、忠清が承応2年(1653)6月、若干29歳にして老中に就任した。老中首座は松平信綱、松平乗寿、阿部忠秋と4人体制で構成した。寛文6年(1666)42歳で忠清は大老に就任する。就任中には殉死禁止令や伊達騒動、越後騒動の裁定に関わった。天和元年(1681)2月に隠居し、大老時代には「下馬将軍」と称され屋敷が江戸城大手門下馬札付近であった。また「左様せい様」と言われ将軍綱吉の権勢をふるった。家綱の死後、将軍綱吉が就任すると大老を解任され、越後騒動の再審の勧めらる中、一年後忠清が急死したため、自殺ではないかと不審を抱き「墓を掘り起こせ」と命じるまで執拗に検死を求めた。この忠清の死去の原因は憶測を呼んだが、遺体は荼毘に付して分からずじまいで会った。
