『歴史古代豆知識』130・検非違使(けびいし、けんびいし)は日本律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名廷尉京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。平安時代弘仁7年(816)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。寛平7年(895)、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947)に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。司法を担当していた刑部省警察監察を担当していた弾正台に関わる行政治安司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府京都に置かれ、侍所に権限を掌握されることになった。