「戦後日本の記憶と記録」(全307回)104共産党内部対立、所感派と国際派昭和25年1月。主流派徳田一球・野坂参三対志賀義雄・宮本顕治。徳田は第二次世界大戦終戦後の1945(昭和20年)1010に、府中刑務所を訪れたフランスジャーナリストロベール・ギランによって発見され出獄、連合軍を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任する。1946(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚した。1950(昭和25年)、徳田要請問題が発生し証人喚問を受ける。コミンフォルムから批判を受け共産党が内部分裂した(所感派の項を参照)。また6月に公職追放レッドパージ)され、7月に団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したため逮捕状が出され、地下に潜行した。同年10月、大阪港から中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。このとき徳田は「安静にして余命4年」という健康状態であったが、この事実は幹部以外には秘匿された。徳田は引き続き党の全体方針決定をおこなうことが確認され、亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて武装闘争方針を指示した。しかし、やがて北京機関内部では国際派との妥協を唱える野坂参三西沢隆二らとの対立が表面化する。1951(昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。1952(昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。1953(昭和28年)、脳細胞血管の痙攣のため[1]北京で病死、徳田のその死は1955まで公表されなかった。同年913に北京で開催された徳田の追悼大会には3万人が参列した。