『江戸泰平の群像』(全385回)183・徳川 家継(とくがわ いえつぐ)(1709~1716)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713 - 1716)。第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官した征夷大将軍である。宝永6年(17097月3、第6代将軍・徳川家宣の四男[1]として生まれる。家宣は子宝に恵まれず、正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた豊姫天和元年(1681)に早世し、宝永4年(1707)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2ヶ月で早世し、宝永5年(1708)に生まれた大五郎も宝永7年(1710)8月に早世した。正徳元年(1711)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、家継だけが生き残った。正徳2年(1712)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣が死去すると白石は「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したという。こうして家宣没後の正徳3年(1713)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはゆかなくなっていった。正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。死因は風邪が悪化したためといわれる(急性肺炎説が有力[2]。)。享年8。満年齢では7歳に満たない死であった。家継の死により、家宣の血筋は途絶えた[3]。当初は、尾張藩主で家継からも「継」の字の授与を受けていた徳川継友が間部詮房や新井白石らに支持されており第8代将軍の最有力候補であったが、結果として大奥(家宣の正室・天英院や家継生母・月光院など)や、反詮房・反白石の幕臣達の支持も得た紀州藩主の徳川吉宗(就任当時33歳)が第8代将軍に迎えられた。吉宗は家継からみてはとこ大おじ(祖父・綱重はとこの関係)にあたる。