『江戸泰平の群像』(全385回)180・屋代 忠位(やしろ ただたか)(1645~1711)は、安房北条藩の第3代藩主。朝倉宣季(朝倉宣正の三男)の長男。寛文3年(1663)、先代藩主で叔父の忠興が嗣子なくして死去したため、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月に従五位下越中守に叙任する。大坂加番となり、元禄5年(1692)2月に100人組頭となる。元禄6年(1693)8月に大番頭となる。しかしその出費のために藩財政が窮乏化し、正徳元年(1711)に全ての職を辞して出費を抑えようとした。また、川井藤左衛門を登用して本格的な藩政改革を行なおうとした。ところが同年9月、川井は年貢増徴を主とした財政再建を行なおうとしたために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中の秋元喬知にまで訴える有様であった。これに危機感を抱いた川井は11月26日、農民側の代表者3名を捕らえて死罪とし、さらにその妻子を追放して家財を全て没収するという強硬手段をとったが、農民側は勢いを盛り返して再度幕府に訴え出た。ことここに至って幕府の裁断により、正徳2年(1712)7月22日、川井父子は死罪、忠位も失政を咎められて改易となり、ここに北条藩は廃藩となった(万石騒動)。その後、忠位は屋代氏の祖先の功績などを考慮されて3000俵の知行を与えられ、旗本として存続した。正徳4年(1714年)2月20日、68歳で死去した。嫡男の忠知は忠位より先に没していたので、室賀姓を名乗っていた六男の正勝が屋代家に復し家督を継いだ。