『江戸泰平の群像』(全385回)168・松浦 重信(まつら しげのぶ、元和83月1316224月23) - 元禄1610月6170311月14))は、江戸時代前期の大名肥前平戸藩の第4代藩主。平戸松浦氏第29代当主。隠居の後に曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記でよく知られている。第3代藩主・松浦隆信の長男。母は牧野康成の娘・充。正室は明石藩松平忠国の娘。幼名は千代鶴、通称が源三郎。官位は従五位下肥前守。 の文人文天祥を尊敬して天祥庵を結び、天祥と号する。後年、退静爺や、徳祐とも称した。法名は圓惠(円恵)。元和8年(1622年)3月13日に江戸藩邸で生まれた。寛永6年(1629)、将軍徳川家光に初めて拝謁。寛永12年(1635)12月、従五位下、肥前守に叙任される。寛永14年(1637)5月に父・隆信が他界し、9月7日に遺領を継いで藩主となった。同年、島原の乱が起きたので、任を受けて11月14日に領国に戻り、長崎奉行の指示を受けて家臣に手薄になった日見・茂木の両所を警護させた。板倉重昌の戦死後は原城攻撃にも松浦勢を参加させ、功あったので禄百石を加増された。乱の終結後の寛永16年(1639)、元藩士浮橋主水が江戸幕府評定所に平戸藩にキリシタンの嫌疑があると訴え出た浮橋主水事件が起こり、幕府按検を受けた。訴えは誣告であるとして浮橋主水は伊豆大島流罪とされたが、平戸に立ち寄った松平信綱は、藩がオランダとの独占的な交易によって得た強力な兵備を持っていることに驚き、幕府は警戒を強めた。寛永18年(1641)、平戸商館の閉鎖が命じられ、以後は開港地は長崎出島に限定された。このため平戸は再び漁村となり、平戸藩は巨利を失い財政が苦しくなり、土地を持てない武士が増えたが、以後は新田開発を始めとして畜産など諸産業の振興に力を入れ、後には九州第一の善治良政と讃えられるまでになる。寛永20年(1643)、朝鮮通信使壱岐で歓待する。正保2年(1645)、キリシタンが見つかりこれを領地から逐う。承応元年(1652)、平戸に天台宗樹光寺を草創した。万治1658)、再び領国でキリシタンが見つかり、弾圧を命じられて60名余を斬首し、その功を賞される。明暦2年(1656)、重信家訓四十五条を記し、諸有司の職務十七条を認める。寛文4年(1664)、従弟松浦信貞に1,500石を分与した。結果、平戸藩は6万千7百石となる。寛文8年(1668)、高力隆長島原藩改易となり、幕府の命で小笠原長勝と共に4月27日に島原城の接収役となった。貞享1685)9月、詰衆となり、雁間に列する。元禄2年(1689)3月2日、奥詰に進むが、病で任を退き、7月に隠居して嫡男が継いだ。また次男に1万石分与して平戸新田藩初代藩主とした。8月に剃髪し、諱も鎮信と改めた。元禄16年(1703年)10月6日、向島の別邸にて死去。享年82。墓所は本所天祥寺。戒名は天祥院殿慶厳徳祐大居士。