「二十二社巡り」住吉大社・大阪府大阪市住吉区住吉29の89・摂津国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。

主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が・第四本宮に息長足姫命が祀られている。

社殿の第一は奥に、手前に第二、第三と縦に並び、第四は第三の右横に並んで立っている。神社建築の古い形式の一つ、「住吉造」であり国宝に指定されている。

創建は仲哀天皇の御世、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺市七道)付近に帰還した時、神功皇后の神託により天火明命の流れを汲む一族の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのが始まりという。

『古事記』では「其の底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命三神は墨江の三前の大神なり」と記され三神の和魂を大津中倉長狭に鎮祭されたことに始まる。

住吉大社の古代大和王権の外交渡航の関連した神社で、遣唐使・遣隋使の守護神であった。特に津守氏遣唐神主として乗船をした。

説話に依れば神功皇后が長門豊浦宮から仲哀天皇の遺骸を取り納めて海路、都に向かわれた時、忍熊王の叛乱にあった。そこで

()古水門

(このみなと)(武庫川)に帰って占った所、表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が現れて「わが魂を大津の渟中倉の長峡に居らしめれば、海の航海は安全に見守ることしょう」と云われ、その通りにすると海を平安にわたることが出来たという。

大社の南部は細江川。古代の細江に当り仁徳天皇が開拓をさせた住吉津、「住之江津」から発展をする。

『延喜式神明帳』には「住吉坐神社、四坐」と記され、名神大社に列せられた。

現在の社殿は海岸線より離れ街中にあるが、江戸時代までは境内馬場は海に面し、白砂青松の風光明媚な美景の名所だった。

延暦三年(784)正三位住吉神に勲三等を賜る。大同元年(806)には従一位から正一位にまで昇叙された。

摂津国一ノ宮として朝野の境なく崇敬を受け、特に天皇の行幸は天武天皇以来数多く、鎌倉以降は武家、将軍を始め、建久六年(1195)源頼朝は神馬を奉納、楠正成、足利尊氏、豊臣秀吉らの厚い崇敬を受けた。

江戸時代に入ってからも徳川将軍以下の諸大名の崇敬厚く、参勤交代の際は当社に参拝する大名が多かった。

★『古事記』には住吉大神が多く記載されている。イザナキ大神は水中に入って黄泉の国に行って身に付いた穢れからは八十禍津日神・大禍津日神が出現をした。

また禍を直そうとして生まれた神は神禍毗神、大直毗神、伊豆能売の三神。水の底です過ぎ生れた神は底筒之男神、底津綿津見神、水の中程で生まれた神は中筒之男神、中津綿津見神。また水面で漱ぎ生まれた神が上筒之男神、上津綿津見神が生まれた。

それぞれの神々は氏族の祖先神に底、中、上筒之男神は住吉三座の大神になった。

最後に『古事記』の源流になった三貴公子が左から天照大神・右目から月読命が鼻から建速須佐之男

(すさのをのおとこ)命が生まれた。

★『古事記』には神宮皇后の新羅征伐に記されている住吉神は。

この国を統治される御子は、皇后の体内におられる。御子は男女の分けの問いに「男子である」のお告げ、この神託の御心の問いに、天照大御神と住吉神三神である。

西の国に求めるならば、住吉大神三神と諸神に西征の船に祭、充分な供え物と、大海に浮べて航海すればよいと、お告げがあった。

そこで、大神の教えの通り、軍勢を整え、船を並べて、海を並べて航海された時に、海の魚の大小、全て一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が吹き起こり、御船は波に乗った。

その御船に押し進めた大波は新羅の国に寄せあがり、国土の半ばまで来た。

その国王は恐れはばかり「今からは天皇の仰せのまま、新羅は天皇の馬の飼育掛となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・梶の乾く間もなく、天地のある限り、絶えることなくお仕え申します」と申した。そうした次第で新羅国を御馬飼いと定め、百済国を海彼の屯家を定めた。

そして皇后は、御杖を新羅の国王の城門を衝きて立て、住吉大神の

(あら)御魂

(みたま)が国を守る神として鎮めて、海を渡りなさった。この様に摂津一ノ宮の住吉大社は『古事記』にも重要な部分に登場し、地域の崇敬を集めた。