『江戸泰平の群像』(全385回)162・徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)(1662~1712)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709 - 1712)である。甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。寛文2年4月25日(1662年6月11日)、徳川綱重長男として、江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中・お保良(長昌院)に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。生母は寛文4年(1664)に死去している。9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱偏諱を受けて綱豊と名乗った。延宝6年(1678)10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・順性院に育てられた。延宝8年(1680)、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟である上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。綱吉にも男子がおらず、綱吉の娘婿の紀州藩徳川綱教という後継候補も存在したが、3代将軍徳川家光の孫であることもあって将軍世嗣に正式に定まり、「家宣」と改名して綱吉の養子となり江戸城西の丸に入ったのは宝永元年12月5170412月31)、家宣が43歳の時だった。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。宝永6年(1709)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、宝永通宝の流通と酒税[1] とを廃止。生類憐れみの令も一部を残し順次廃止させた。ほか、柳沢吉保の辞職により側用人間部詮房、学者として新井白石らを登用して、綱吉時代から始まった文治政治を推進し、琉球李氏朝鮮との外交や宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。しかし在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去。享年51(満50歳没)。家綱・綱吉と同様に家宣も後継者に恵まれず将軍職を継いだのは3歳の徳川家継で、政治は引き続き新井白石らに依存した。