『江戸泰平の群像』(全385回)134・井伊 直興(いい なおおき)(1656~1717)は、江戸時代前期から中期の譜代大名江戸幕府大老近江彦根藩の第4代藩主および第7代藩主。直治(なおはる)、直該(なおもり)とも名乗る。井伊直縄(第2代藩主・井伊直孝の四男)の長男。母は桜居氏。正室は蜂須賀隆重の娘と縁組するが、婚儀までに死去。側室は平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏。子に直通(次男)、直恒(三男)、直矩(四男)、直惟(五男)、直定(六男)、娘(井伊直朝正室)、娘(阿部正喬正室)、娘(三条公充室)、娘(木俣守吉室、後に木俣守嘉室)、娘(松平康弘室)、娘(印具保重室)ら。幼名は吉十郎。官位は正四位上左中将掃部頭。明暦2年(1656年)3月6日生まれ。父・直縄は伯父の井伊直滋万治元年(1658)に祖父直孝に廃嫡される前に死去しており、叔父の井伊直澄が世子となり祖父の死後家督を継いだ。直孝が遺言で直縄の子である直興に後を継がせるように言い残していたため、寛文12年(167211月27に直澄の養子になり、延宝4年(1676)の直澄の死去により家督を継いだ。彦根での治世は、延宝6年(1678)に困窮と拝借金の支給を訴えた藩士76人を追放、翌7年(1679)に家中法度を定め、家臣に対して厳しく統制を行った。また、下屋敷(槻御殿)に楽々園瀟湘八景近江八景を模した玄宮園を建造し[1]、領内の琵琶湖に面した松原港・長曾根港を改築するなど土木事業に熱心であった。藩士への救済・引き締めも図り、貞享2年(1685)には一転して藩士に対する融資制度を開始、元禄4年(1691)には家老の木俣守長に命じて藩士の家系や由緒を集めて「侍中由緒書」を編纂、元禄6年(1693)に藩士に対して上米を命じた。元禄10年(16971月11には追放した藩士76人に帰参を命じたり[2]、元禄12年(1699)に彦根藩で飢饉が発生した時は救米支援をしている。延宝8年(1680)、溜間詰となり、徳川綱吉が第5代将軍に任じられた朝廷への返礼の使者を務めた。延宝9年(1681)、越後騒動で改易となった松平光長を江戸屋敷に預かる。元禄元年(1688)11月には日光東照宮の改修総奉行に任命され、翌2年(1689)7月から3年(1690)7月にかけて仙台藩主・伊達綱村と協力して大規模な修復を果たして功を挙げたため、元禄8年(169511月28に江戸城御用部屋入りを命ぜられ老中待遇となり、元禄10年6月13には大老となった。しかし、3年後の元禄13年(17003月2に病を理由に辞任して国に帰り、翌14年(17013月5に次男の直通に家督を譲って隠居した。同年12月に直治と名を改めたが、直通が宝永7年(1710)7月に22歳で早世したため、三男の直恒に跡を継がせたが、彼も同年10月に間もなく早世した。このため次の男子が成長するまで、剃髪して覚翁と号していたのを還俗して直該と改め、藩主に再立した。さらに翌年の正徳元年(17112月13に大老に再任し、官位も正四位上中将まで進んでいる。これは当時、徳川家宣が第6代将軍に就任して間もない時期で、幕臣筆頭の立場である井伊家が政権に加わることで安定化を図る目的があったことが理由の1つと考えられる。正徳2年(1712)10月14日に家宣が死去、翌3年(17133月26に家宣の息子・家継が元服すると烏帽子親を務めた。正徳4年(17142月15に5男の直惟元服すると2月23に大老を辞任、直惟に家督を譲って隠居し、名を直興に戻した後、翌5年(1715)12月に出家して全翁と改めた。また末子の直定にも1万石を分知し、彦根新田藩を創設した。享保2年(1717年)4月20日、彦根にて62歳で死去した。遺骸は歴代藩主とは別に永源寺(東近江市)に葬られた。戒名は長寿院覚翁知性。四男の直矩は同族の遠江掛川藩主・井伊直朝の養嗣子となり、宝永3年(1706)に越後与板藩に移封された。また、家臣と娘との間に生まれた外孫井伊直員も与板藩主になっている。