『江戸泰平の群像』130・住友 吉左衛門(すみとも きちざえもん)は、住友財閥の創業家・住友家3代目から代々、襲名した名前。住友 友信(すみとも とものぶ、正保4年(1647宝永38171706923))は住友家3代当主で、住友二代目友以の5男。友信の代から住友家の当主は代々、「吉左衛門」を襲名するようになった。友信は、岡山県吉岡銅山秋田県阿仁銅山などの経営に乗り出し、幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させた。4代目 友芳・住友 友芳(すみとも ともよし、寛文10年(1670享保41226172024))は住友家4代当主で友信の子。住友財閥の大躍進の基となったのは、友芳が元禄4年(1691)に開発した愛媛県の別子銅山によってである。この別子銅山は昭和48年に閉山されるまで、282年間にわたりを産出し続け、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この友芳を「中興の祖」としている。5代目 友昌・住友 友昌(すみとも ともまさ)は住友家5代当主。6代目 友紀・住友 友紀(すみとも とものり)は住友家6代当主。7代目 友輔・住友 友輔(すみとも ともすけ)は住友家7代当主。8代目 友端・住友 友端(すみとも ?)は住友家8代当主。9代目 友聞・住友 友聞(すみとも ともひろ)は住友家9代当主。岡村家より養子に入った。10代目 友視・友 友視(すみとも ともみ)は住友家10代当主。11代目 友訓・住友 友訓(すみとも ?弘化2年(1845元治元年(1864))は住友家11代当主。12代目 友親・住友 友親(すみとも ともちか、天保14年(1843明治23年(1890))は住友家12代当主。11代友訓の弟。13代目 友忠・住友 友忠(すみとも ともただ、明治5年(1872年) - 明治23年(1890年)1130)は住友家13代当主。12代の長子にて彦根中学に進学。明治21年に家督を譲られるも、明治231130日、腸チフスにより、学習院在学中に死去。14代目 登久・住友 登久(すみとも とく)は住友家14代当主。友親の妻、友忠の母。13代友忠が夭折したため、一時的に住友家の家督を継いだ。15代目 友純・大正全国富豪番付で西日本1位だった15代目の住友吉左衛門・住友 友純(すみとも ともいと、元治元年12211865118大正15年(192632)は住友家15代当主。徳大寺公純の子で、兄に徳大寺実則西園寺公望、弟に末弘威麿らがいた。初名は隆麿。友純は、野村徳七小林一三とならぶ大茶人であり、益田孝団琢磨原富太郎根津嘉一郎に匹敵する風流人であった。号は春翠。1895住友銀行を創設。住友家茶臼山本邸(慶沢園)を大阪市に寄付し大阪市立美術館となる。また大阪府立中之島図書館の建物と図書基金を寄付したほか、京都法政学校(現在の立命館大学)にも財政的援助を行った。明治44年(19118月、男爵を授けられる。16代目 友成・住友 友成(すみとも ともなり、明治42年(1909220 - 平成5年(1993614)は住友家16代当主。アララギ派歌人でもあり、斎藤茂吉川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流があった。友成の歌人としての名は「泉幸吉」である。歌集に『樅木立』(私家版、1973)がある。17代目 芳夫・住友 芳夫(すみとも よしお、昭和18年(194393-)は住友家17代当主。住友金属工業技監。友成の甥(弟・住友元夫の長男)にあたる。