『歴史古代豆知識』31・高句麗(こうくり)(紀元前37 - 668)または高麗は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部の、ツングース系民族による国家。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。三国時代新羅百済と共に朝鮮半島を割拠し、等の中国王朝や倭国と勢力を争った。三国史記』や『三国遺事』によれば朱蒙(東明聖王)が紀元前37に高句麗を建てた。考古学や史は高句麗は紀元前2世紀古朝鮮の滅亡時期の周辺に既に存在したとする。疲弊と内紛の後に668に新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ帝国であり軍国主義国であった。高句麗は長寿王の代から高麗とも称され、後継とされる高麗中東の商人やマルコ・ポーロから西方に伝わって現在の英語の「コリア」(Korea)という名称になった。高句麗は別名を(はく)と言う。『後漢書』によれば、3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東濊の2部族は、すべて前漢代の「濊貊」の後裔である。そのため、日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。高句麗という固有名詞の起源は、漢が設置した玄菟郡の高句驪県に由来する。『後漢書』の高句麗伝には「高句麗侯」が現れるが、これは玄菟郡の縮小移転に伴っていくつもの県が放棄された際に、現地の土豪を県侯に任じたと推測されている。

紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって濊貊系に属する濊族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形成した濊貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟牧畜を生業としていた民族とみられる。『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。朱蒙の母である中国河伯黄河の神)の娘の柳花夫人は、太白山の麓の優渤水で扶余王の金蛙と出会ったが、柳花夫人は「遊びに出た先で、天帝の子を自称する解慕漱に誘われ付いて行くと帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」と話したが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれ軟禁された。やがて柳花夫人は日光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した柳花夫人の助言により友と共に脱出して卒本へ至って建国したという。卒本は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)で、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。後漢書高句麗伝によると32に高句麗は後漢光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。3には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。

その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。国内城は最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(新大王)の時代には遼東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。197に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。219、高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子発岐、消奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。

高句麗は以前からに朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242に西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。244に1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃沮へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。その後も遼東半島への進出を目指し、西晋八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西前燕を建国した鮮卑慕容部慕容皝に都を落され、臣従した。355には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372には僧侶仏典仏像などが伝わった。この間、371には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。391に即位した19代好太王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397阿莘王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402、新羅もまた倭に奈勿王の子未斯欣を人質に送って属国となった。404、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。

5世紀長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。