『歴史古代豆知識』26・屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。管理の仕方や労働力は多様であり、屯倉の経営は古墳の発達と関係しており、概観すると5世紀を境に前期屯倉と後期屯倉に分かれている。前期屯倉は、顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)朝以前にできたという伝承をもつ屯倉であり、その設置地域は、朝鮮半島を除き畿内またはその周辺部に限られている。たとえば『記・紀』にみえる倭(やまと)・茨田(まむた)・依網(よさみ)・淡路の屯倉、『播磨国風土記』にみえる餝磨(しかま)・佐岡の屯倉、『記・紀』や『風土記』にみえる縮見(しじみ)屯倉などがある。これらの屯倉は大王自らの力で開発され経営された。たとえば、倭屯倉は、垂仁朝や景行朝に大王自らが設置したと『記・紀』に伝えられているもので、その地は現在の奈良県磯城郡三宅町の地を中心とした一帯であると推定されている。このあたりの微高地に蔵としての屯倉を置き、周辺の低湿地を開発して田地とし、倭屯倉を造った。5世紀頃であると考えられている。また、大阪市住吉区我孫子あたりから松原市などにわたる一帯に、依網池を造成し、灌漑施設を造るなどして依網屯倉が造られた。また、屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。仲哀朝に置かれたといわれている淡路の屯倉は、田地ではなく大王の狩猟場であった。漁民や山民は直属の民として、狩猟での獲物や海産物を王室に納めた。加古川の上流三木市にあったといわれている播磨の宿見屯倉は、在地の土豪忍海部造細目を管理者として経営している。継体天皇22年(528年九州糟屋屯倉が置かれ、続く安閑天皇期には関東以西の各地に数多くの屯倉が設けられた。安閑天皇元年(532年)には伊甚屯倉をはじめ10個ほどの屯倉が、翌年には筑紫国に穗波屯倉・鎌屯倉の各屯倉、豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉など20個あまりの屯倉が設置されたことが『日本書紀』にみえる。