「平安京物語」105藤原 基衡(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。父は藤原清衡。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により、出羽国寒河江荘慈恩寺に阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置したという。だが、この逸話は父・清衡が慈恩寺を再興したか、もしくは再興年に誤りがあるとみられる。大治3年(1128年)に父清衡が死去。翌大治4年(1129年)、異母兄である惟常ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという[10]。なお、惟常は跡継ぎ(ジュニア)を意味する「小館」と称されて独自の屋敷を構えており、後継者と目されていた可能性がある。対して基衡は「御曹司」と称されて清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に源義経も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。また、長子相続が絶対の時代ではなかったため、このような事態は平然と起こり得た。 この内乱の背景には基衡自身の野心もあったかもしれないが、第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ勢力と安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ勢力との小競り合いがあったということである。しかし、平泉を中心地に選んだことで、陸奥国の経済力が出羽国の経済力を上回るようになり、これが基衡の勝利の一因と思われる。また、家臣たちにとって、独立した屋敷を構えていた惟常よりも父・清衡と共に住んでいた基衡の方が親しみやすかったのかもしれない。 基衡はこの1年に渡る合戦に勝利し、奥州藤原氏の当主となる。なお、清衡の元妻が清衡死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性は基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測される。惟常と基衡を擁立したそれぞれの家臣団は独立性が非常に強かったことも内乱に影響を与えたと考えられる。この経緯から、基衡は奥州藤原氏当主の権力強化・確立とそれによる家臣団の統制に乗り出すことになる。この基衡の努力は、基衡が急死した時に嫡男・秀衡が跡を継いだが、この際、基衡の家督継承時の様な内乱は記録されておらず、秀衡への家督継承は円滑に行われており、奥州藤原氏当主の権力強化・確立と家臣団の統制に成功したと考えられる。また、この成功の過程で基衡を支えたのは、佐藤基治、その息子達の佐藤継信・忠信兄弟を輩出した信夫佐藤氏であった。康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季治(佐藤季治、または季春)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。 また、左大臣・藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。久安6年(1150年)から久寿3年(1156年)にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていった。また、基衡の妻は観自在王院を建立している毛越寺を建立するときの豪奢な贈物は都人の耳目を聳動させ、その様子は『吾妻鏡』で「霊場の荘厳はわが朝無双」と称された。毛越寺本尊造立時の逸話として、当時の毛越寺の本尊は、基衡の依頼により都の仏師雲慶により作られたが、その謝礼として百両もの金をはじめとした絹や奥州産の馬、蝦夷ヶ島(北海道)産のアザラシの毛皮など大量の品物を送った。ある時、別禄として生美絹(すずしのきぬ)を船三隻に積んで送ったところ、雲慶は大変喜び、「練絹なら尚よかった」と冗談まじりに言ったところ、その話を聞いた基衡は大変後悔し、新たに練絹を船三隻に積んで送ったという。 この逸話から、当時の奥州藤原氏の財力を窺い知ることができる。保元2年(1157年)3月19日頃、基衡は死去した。この際、基衡の家督継承時の様な内乱は記録されておらず、嫡男・秀衡への家督継承は円滑に行われたと思われる。基衡はかつて自分が内乱の当事者となったことがあるため、再び後継者争いで内乱を起こることを防ぐために前以って、秀衡を後継者に指名していたと考えることもできる。父清衡の正室に北方平氏の名がよく見える。しかし、この女性が清衡の正室に迎えられた時、20歳代だったと思われるため、基衡の生母は安倍氏の娘、もしくは信夫佐藤氏の娘ではないかとも考えられている。なお、清衡の元妻が清衡の死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性が当時30歳代の北方平氏とされ、基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測されている。『吾妻鏡』で基衡は「夭亡」としている。「夭亡」は若くして亡くなるの意味であり、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』では基衡の死をこう記していることから、基衡は老年前に亡くなったのではないかと思われている。しかし一説によれば『吾妻鏡』で用いられる「夭亡」は他の使用例からみて「不慮の死」「突然の死」という意味でも使われ、基衡が老年前に死んだことを意味するとは限らない、という見解もある(基衡は急死であり、「突然の死」と表現できる)。
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