『歴史の時々変遷』(全361回)321“相馬大作事件”「相馬大作事件」文政4年4月23日(1821)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲ったテロ事件・暗殺未遂事件。秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。諱は将真(まさざね)。陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、病弱であった兄が父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱藩して1806年(文化3年)に江戸に上ったとされる。江戸では、初めは夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修め、夏目が蝦夷に派遣されると、次に平山行蔵(夏目は平山の高弟)に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設。同塾では武家や町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる。ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた。1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」とテロ行為を予告した。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助、下斗米惣蔵、一条小太郎、徳兵衛、案内人の赤坂市兵衛らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだとされている(未使用)。秀之進の父、総兵衛は大吉と喜七と徳兵衛[という仙台藩出身の刀鍛冶を雇っていた。しかし、彼らは代金が払われないために仙台藩に帰郷できないでいた。そのうち秀之進の計画を知り、さらに身の危険を感じ、事件の計画を津軽藩に密告した。大吉と喜七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる。暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていたと言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩した。参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められたためとも噂されたが、寧親は久保田で何日か滞在しており、その間に道筋変更の願いを提出したとする記録がある。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。なお、この事件と前後して、盛岡藩内では当主替玉相続作戦(前年に家督相続したばかりの南部利用(南部吉次郎)が、事故による負傷のため急死。未だ将軍御目見得前であったため、改易・減封をおそれた家臣団は、吉次郎に年格好が似た従兄の南部善太郎をひそかに「南部利用」として擁立した。)などを行っていて、津軽藩の家格云々どころではなかった上に、「現役の自藩士による他藩藩主襲撃未遂事件」が露呈すると、藩の存続自体がますます危うくなる状況だった。津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるものであるという。秀之進と関以外の関係者は事件後情報が漏れないように、牢につながれた。また、秀之進の息子と弟は南部藩に保護された。老中青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場上から秀之進に同情を寄せたという話も残っている。
当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。実際は津軽寧親は普通に隠居し、そ